李安人
- 李安人は蘭陵承の人。祖父嶷は衛軍將軍、父欽之は薛令。安人は若くして大志があり「大丈夫が世に処すには富貴を希わずには得られぬ、三將五校(高位の武官)を得るのに何の難があろう」と語った。父に従い薛縣にあったが、宋の元嘉中、縣が魏に陥落した際、安人は部曲を率いて南に脱出した。
- 明帝の頃、次第に武衛將軍に遷り水軍を率いて晉安王子勛を討ち各所で戦捷した。事平定後、明帝が新亭楼で諸軍主を労い摴蒱を賭させた際、安人は5回擲って皆盧(最高目)を出し、帝は驚いて「卿の顔は田の字型で封侯の相だ」と語った。安人は若い頃貧しかったが、ある人が門前を通りかかり人相を見て「後に大富貴を得て天子と手を交え共に戯れるだろう」と語ったといい、この頃にはその人の行方は知れなくなっていた。
- 後に廣陵太守・南兖州事を行った。齊高帝が淮陰にあった頃から安人は遠くから通じていた。元徽初、司州刺史・義陽太守に除せられ、桂陽王休範の挙兵の際は軍を遣って都を援けた。建平王景素の挙兵時には、安人はその軍を葛橋で破った。景素誅殺後、南徐州事を行った。城局參軍王回素は安人に親しまれていたが絹二匹を盗み、安人は涙を流しながら「私と汝は苦楽を共にしてきたが今日の犯法は汝が私を裏切ったのだ」と軍門で斬った。後にその葬儀を執り行い、軍府は皆震服した。
- 東中郎司馬・㑹稽郡事に転じた。蒼梧王が縦虐であった頃、齊高帝が対策に窮していた際、安人は東で江夏王躋を奉じて挙兵することを高帝に進言したが許されず取りやめた。高帝即位後、中領軍・康樂侯。宋の泰始以来、内外にしばしば賊寇があり将帥以下が各々部曲を募って都下に屯聚していたが、安人は上表して「淮北の常備以外の余軍は皆輸遣すべきで、親近に随身させたい者は人数を限るべき」と献策し、上はこれを納れ衆募を断つ詔を下した。当時王敬則は勲誠により親しまれ家国の密事は上ひとり安人と議するのみで「署事に卿の名があれば私はもう細覧せずともよい」と語った。
- まもなく領軍將軍。魏が夀春を攻め馬頭に至った際、詔で安人にこれを禦がせると魏軍は退いた。安人は淮を進んで夀春に至った。先に宋代の亡命者王元初が六合山に党を聚め僭号し「垂手過膝」と自称して州郡が十余年討伐しても捕えられずにいたが、安人はこれを生け捕り建康市で斬った。
- 高帝崩御時の遺詔で侍中を加えられ、武帝即位後は丹陽尹に転じ尚書左僕射に遷った。安人はしばしば密謀を啓して賞され、また尚書令王儇と結んだため、世は「儇の啓によりこの授任があった」と伝えた。まもなく年老と病を理由に上表し辞退を求め、呉興太守となった。家から米を運んで郡に赴くほど清廉であった。呉興には項羽神を祀る廟があり、太守は着任時に軛下牛を供えねばならなかったが、安人は仏法を奉じ神牛には従わず屐を履いたまま聽事に上がった。また聽事で八關斎を行ったところ、まもなく牛が死に廟の側に葬られ、今は「李公牛冢」と呼ばれている。安人はまもなく卒し、世はこれを神の祟りと考えた。諡は肅侯。
李安人の子 元履
- 子の元履は幼くして操業があり政体に明るかった。司徒竟陵王子良の法曹參軍となり王融と親しく交わったが、王融が誅された鬱林王の代、勅命により右衛將軍王廣之に随って北征し密かに殺すよう命じられた。廣之は元来安人に厚遇されており、元履に過失のないことも知っていたため大いに擁護した。まもなく鬱林が敗死し、元履は廣之に謝して「22年の父母の恩の他は、丈人(廣之)の賜物です」と述べた。梁に仕えて呉郡太守・度支尚書・衡廣青冀四州刺史を歴任した。