南史卷四十五 列傳第三十五 張敬兒
南陽冠軍の人、張敬兒(?-永明元年)。弓馬に長け沈攸之討伐で功を挙げ雍州刺史・開府儀同三司に至ったが、卜占や夢占いに惑溺し驕慢な言動が目立ち、武帝に異志を疑われて誅殺された。
張敬兒
- 張敬兒は南陽冠軍の人。父醜は郡将で節府參軍にまで至った。敬兒は若くして弓馬に長け胆気があり、猛獣を射て外さなかった。南陽新野の風俗として騎射を尚び、敬兒はその中でも膂力に優れ、寧蠻行參軍に至った。随郡の人劉胡が襄陽の山蠻を討伐した際、敬兒は険阻に深入りし所向皆破り、また胡陽蠻を撃つ際、官軍が退いても単馬で殿を務め賊を抗った。
- 山陽王休祐が夀陽を鎮め善騎射の士を求めた際、敬兒と襄陽の俞湛が選ばれた。敬兒はよく人に仕えたため寵愛され長兼行參軍。泰始初、府の転じるに随い驃騎參軍・署中兵領軍として義嘉賊を討ち劉胡と鵲尾洲で対峙し、明帝に本郡(南陽)の事を乞い、事平定後に南陽太守となった。敬兒が襄陽府の一将であった頃は貧しく、休みのたびに雇われて生計を立てていたが、かつて城東の呉泰家で水を運んだ際、泰の愛妾と密通したことが発覚し殺されかけたが棺材の中に逃げ隠れて免れた。鵲尾洲にあった時、明帝に「呉泰が糸で雍州刺史袁覬の弩弦を助け反逆に党した、平定の日にはその家財を賜りたい」と啓し、許された。呉氏の一族は倮身で逃げ出るのみで僮役・財貨は数千万に及び、敬兒は皆これを得た。先に通じた婢はそのまま妾とした。
- 後に越騎校尉。桂陽王(休範)の乱が起こると齊高帝に隷し新亭に頓した。矢石が交わる中、休範は白服で輿に乗り楼下を労い、敬兒は黄回とともに高帝に偽って降ることを申し出て取ろうとした。高帝は「事が成れば本州を賞として与えよう」と言い、敬兒らは城南に出て武器を捨て大声で降を称した。休範は喜んで輿の側に召し、黄回が高帝の密意を伝え休範がこれを信じて敬兒を目で示すと、敬兒は休範の防身刀を奪い斬った。左右百人は散り、敬兒は首を持って新亭に帰った。驍騎將軍・輔國將軍を加えられ、高帝は酒を置いて「卿の功なくば今日はなかった」と語った。
- 帝は敬兒の身分が軽いことから襄陽の重鎮とすることをためらったが、敬兒がしきりに求めるため、高帝はひそかに「沈攸之が荊州にあり何をしようとしているか分からぬ、汝が防がねば公の利にならぬ」と語り笑って承知した。雍州刺史・都督・襄縣侯となり沔口に泊した際、舴艋で江を渡り晉熙王燮に詣でる途中、中江で風に遭い船が覆り、丁壮の左右は各々泳いで脱したが幼い二人の従者が船下に沈み敬兒を求めた。敬兒は両脇に彼らを抱え船とともに浮かび、数十里を漂流してようやく救助された。持節も失い改めて給されたという。
- 鎮に着くと厚く攸之と結びその動静を探り高帝に密告し二心のないことを示した。攸之の司馬劉攘兵とも親しく、蒼梧王が廃された後、敬兒は攸之がこれを機に挙兵することを疑い、密かに攘兵に問うたところ馬鐙一隻が敬兒に寄せられ、これを備えとした。昇明元年冬、攸之は使者を敬兒に遣り労接周至であったが、敬兒は食事の席を設け終えると仗を庁事の前に列し斬った。攸之の部曲を集めて頓し、攸之が下って江陵を襲おうとしていたことを告げ変を知らせると高帝は大いに喜び、鎮軍將軍に進み攸之討伐の督を改めた。攸之は郢城で敗走し、その子元琰は兼長史江乂・別駕傅宣らと江陵に還った。
- 敬兒の軍が白水に至った時、元琰は城外の鶴唳を叫び声と誤認し恐懼して逃げようとし、その夜江乂・傅宣が門を開いて出奔したため城は潰れ、元琰は寵洲に逃げて殺された。敬兒は江陵に至り攸之の親党を誅し、その財物数千万を没収したが、良いものは悉く私しその臺に送ったものは百分の一にも満たなかった。攸之自身は湯渚村で自経して死に、居人がその首を荆州に送り、敬兒はこれを楯に擎げ青繖を蓋にして諸市郭に狥え建業に送った。爵は公に進んだ。
- 敬兒は雍州で貪残であり、人間の一物でも用いられるものは奪い取り、襄陽城西に大邸宅を構え、その規模は襄陽に匹敵するほどであった。さらに羊叔子の堕淚碑をその場所に移そうとした際、臺綱紀が「これは羊太傅の遺徳であり動かすべきでない」と諫めると、敬兒は「太傅とは誰だ、私は知らない」と答えた。齊受禪後、侍中・中軍將軍に転じ、散騎常侍・車騎將軍に遷り佐史を置いた。高帝崩御の遺詔で開府儀同三司を加えられたが、家で密かに泣いて「陛下(高帝)は老いて崩じたのは惜しくないが、太子は年少で我らの及ぶところではない」と語った。
- 王敬則に会った時、戯れに「褚彦回(禅譲の使者として知られる人物、変節者の代名詞)」と呼ばれると、敬兒は「私は馬上で得た功、決して華林閤の勲(文治の功)は作れぬ」と答え、敬則はこれを深く恨んだという。敬兒は若い頃、妻毛氏との間に子道門があったが、郷里の美貌の尚氏を悦んで毛氏を棄て尚氏を室とした。三司の位に就いても尚氏は襄陽の宅に住んでおり、外出を控えていたため家族を都に迎えたが、武帝に啓しても慰問されず敬兒は自ら疑い出した。垣崇祖の死後はさらに恐懼を深めた。敬兒は性来卜術を好み夢を信じ、荊州征討の折には諸将帥と会うたび自らの見た夢(社樹が数十丈に伸びる夢など)を語り、部曲を誘い「貴きこと言うべからず」と自称するなど、次第に度を失った。
- また郷里で童謡を作らせ「天子は何処に、宅は赤谷口にあり、天子は誰か、猪にあらずんば狗の如し」と歌わせた(敬兒の家は冠軍にあり、その宅前の地名が赤谷であった)。開府に加え班劒を望んで「私の車の傍にはまだ班蘭の物が少ない」と語った。敬兒は荒遠の地で武事にのみ育ち、都に慣れず四方が寧靖となるとますます不満を募らせた。妻尚氏も「かつて一手が火のように熱い夢を見た年に君は南陽郡を得、髀(もも)が熱い夢を見た元徽中には本州を得、半身が熱い夢を見た建元中には開府を得た、今また体全体が熱い」と親しい者に語ったところ、宦官がこれを聞いて武帝に伝えた。
- 敬兒はまた蠻中と交関する使者を送り、武帝はその異志を疑った。永明元年、朝臣を華林で八關斎に集めた席で敬兒を捕えて誅した。この時左右の雷仲顯が常々「盈満を慎むように」と敬兒を誡めていたが従えず、変を知り敬兒を抱いて泣いた。敬兒は冠貂を脱いで地に投げ「この物が私を誤らせた」と言った。子道門・道暢・道休は誅され、少子道慶だけは宥された。数年後、上(武帝)が豫章王嶷と3日の曲水の内宴を催した際、舴艋船が御坐前で覆没し、上はこれで敬兒のことに言及し殺したことを悔いたという。
- 敬兒は書を識らなかったが方伯に至ってから孝經・論語を学び始めた。護軍に徴された際、密室で人を屏して揖讓の礼を空中に向かって練習し、妾侍が窺い見て笑ったという。三司を拝そうとする前、妻や嫂に「私は拝した後、府に黄閣を開こう」と語り、口で自ら鼓声を真似た。初めて鼓吹を得た際は羞じずすぐに奏し、新林の姥廟で妾のために子を祈った際も口で自ら三公と称するなど、その鄙俚さはこの通りであった。
- 敬兒の母は田中で臥した際、犬の子が角を生やして舐める夢を見て身籠り敬兒を生んだため、初め狗兒と名付けられた。また一子を生んだ際、狗兒の名にちなんで猪兒と名付けたが、宋の明帝はこの名を鄙しんで狗兒を敬兒に改めさせ、猪兒も恭兒に改めた。恭兒は正員郎の位にあったが病を理由に本県に帰り上保村に居し仕官せず住民と変わらぬ暮らしをし、敬兒とは深く友愛を交わした。敬兒が敗走し蠻中に逃げ込んだ後に出頭したことを聞くと、恭兒はその罪を宥された。