南史卷四十五 列傳第三十五 陳顯達

南彭城の人、陳顯達(?-永元二年頃、享年七十三)。宋末より武功を重ね、斉建国後は益州・江州刺史、太尉を歴任した宿将。馬圈城の役で魏軍に大敗した後、東昏侯の粛清を恐れて挙兵し、都下で敗死した。

年表(5件)

陳顯達

  • 陳顯達は南彭城の人で、宋に仕え軍功で彭澤縣子に封ぜられ、羽林監・濮陽太守を歴任し齊高帝に隷した。高帝が新亭で桂陽賊を討った際、劉勔が大桁で敗れ賊が杜姥宅に進んだが、桂陽王休範の死後、顯達は杜姥宅を出て宣陽・津陽門で大戦し賊を大破した。矢が左目に当たり鏃が抜けなかったが、地黄村の潘嫗という巫者が禁術で釘を柱に打ち歩を踏み気を発すると釘が抜け、続いて顯達の目の鏃も抜けたという。事平定後、彭城侯に封ぜられ、平越中郎將・廣州刺史・都督を歴任。
  • 沈攸之の乱が起こると顯達は軍を遣って臺を援けたが、長史到遁・司馬諸葛導が境を保ち衆を蓄えて両属することを勧めたため、顯達は座上で自らこれを斬り、表疏を送って齊高帝に帰心を示した。高帝即位後、護軍將軍。後に御膳に牲を用いなくなった際、顯達は熊蒸一盤を上げ、上はこれで食を充てた。後に都督・益州刺史。武帝即位後、鎮西將軍に進み、益部の山険は多く服従せず大度村の獠は前刺史の統制も効かなかったが、顯達が租賦の督促の使者を送ると獠帥は「両眼の刺史でさえ我々を調するのを恐れなかったが」と使者を殺した。顯達は将吏を分けて配置し、狩猟に出ると称して夜間に襲撃し老若男女を斬ったため以後山夷は震服した。
  • 永明2年、侍中・護軍將軍に徴された。顯達は長らく外任にあったが高帝の喪の際も帰らず、武帝に会うと涙して咽び、上も泣きこれを深く嘉した。永明8年、征南大將軍・江州刺史。顯達は謙厚で智計があり、自らの微賤な身が重位に至ったことを常に愧懼し、10余人の子に「私の本意はここまでではなかった、汝らは富貴をもって人を陵ぐな」と誡めた。家が豪富になり諸子は王敬則の諸児とともに車牛・服飾を競い「陳世子青王三郎」「烏呂文顯折角江瞿曇白鼻」などと世に称され邸に集まる有様だったが、顯達はこれを喜ばなかった。子休尚が郢府主簿となり九江を過ぎて別れを告げた際、顯達は「奢侈な者は敗れぬ者が稀だ、麈尾蠅拂は王謝の家の物だ、これを持ち歩くな」と自ら火にくべた。その静退はこの通りであった。
  • 鬱林の勲を廃したことにより延興元年、司空に進み公爵。明帝即位後、太尉に進み鄱陽郡公に封ぜられ、兵200人・油絡車を給された。太尉として鄱陽郡公を判ずるのは三公事であるが職は連率を典るため、人々はこれを「格外三公」と称した。上(明帝)が高武の諸孫を悉く除こうとした際、顯達に微言で問うと「これらは介慮するに足りない」と答え、上はこれで思いとどまった。
  • 顯達は建武の世、心中不安であったため深く貶退し、車乗を朽敗のままにし導従鹵簿も羸小のものを用いた。侍宴の酒後、上に枕を借りたいと啓すると帝は与えるよう命じたが、顯達は枕を撫でて「臣は年老い富貴も足りている、ただ枕の枕(死の枕)が少ないのみ、これを陛下に乞う」と述べたため上は顔色を失い「公は酔っている」と言った。年老いを理由に告退したが許されなかった。
  • 永泰元年、顯達は北侵を命じられた。永元元年、督平北將軍崔慧景とともに衆軍4万で南郷界の馬圈城(襄陽から300里)を囲み40日攻めた。魏軍は食尽き死人の肉や樹皮を食べ、外囲の急を受け魏軍は突走したため顯達は入城したが、軍主莊丘黑を遣り南郷縣を取らせた矢先、魏孝文帝が自ら十余万騎を率いて奄至し、軍主崔恭祖・胡松が烏布幔に顯達らを担いで均水口へ脱出させた。臺軍は道を緣って奔退し死者3万余人に及び、顯達は素より外境に威名があったが、この時に大損失を被った。御史中丞范岫は顯達の免官を奏し、また解職を表請したがいずれも許されず、江州刺史として彭城を鎮めることになった。
  • 先に王敬則の変が起きた際、始安王遥光は明帝に顯達の変事を懸念して軍を召還すべきと啓したが、事が平定したため止められた。顯達もまた危怖を懐き、東昏立位後はますます帰還を望まなかったが、この職を得て大いに喜び、征南大將軍・三望車を加えられた。顯達は都下で大殺戮が起こり徐孝嗣らが皆死んだと伝わるのを聞き、江州を襲われることを恐れ、11月15日に挙兵し建業を直襲して不備を衝こうとし、郢州刺史建安王寶寅を主に推挙するふりをした。朝廷は後軍將軍胡松らに梁山を守らせたが、顯達は衆数千で尋陽から発し采石で松と戦って大破し、都下は震恐した。
  • 12月、密かに軍を渡し石頭を取り北上して宮城を襲ったため宮掖は大いに驚き閉門守備した。顯達は馬矟で歩軍数百人を率い西州前で臺軍と戦い、再び大勝し矟が折れても手で10余人を殺した。しかし官軍が続々と到着し顯達は抗えず退走、西州の後の烏榜村で騎官趙潭に矟を刺され落馬し斬られた。籬の側に血が湧き、淳于伯が処刑された時の故事に似ていたという。時に年73。顯達は江州で病を患い治療しなかったことを甚だ悔いていたという。この時連冬の大雪の最中、首を朱雀に梟したが雪は積もらなかったという。諸子は皆誅殺された。