南史卷四十五 列傳第三十五 王敬則
臨淮射陽の人、王敬則(?-永泰元年、享年六十四)。宋末は前廢帝弑逆・高帝擁立に功を挙げ、斉建国後は会稽太守・司空・太尉・大司馬を歴任した宿将。明帝の猜疑を察して挙兵したが十日で敗死した。
出自と若年期
- 王敬則は臨淮射陽の人で、晉陵南沙縣に寄寓していた。母は女巫で「敬則は生まれた時の胞衣が紫色だった、鳴鼓角の位を得るだろう」と常々語り、人はこれを笑い「お前の子は人に角を吹かせる身分にはなれるだろう」と言った。敬則は成長すると両脇の下に乳が各々数寸生じ、五色の獅子に乗る夢を見た。性は倜儻不羈で刀剣を好み、既陽縣吏と争って「もし既陽縣を得たら汝の背を鞭打つ」と言うと、吏は「お前が既陽縣を得るなら私も司徒公になれよう」と言い返した。屠狗・商販で三呉を回り、高麗に使いして国の女子と私通したため収監されたが、その後改心した。
- 拍張・刀戟をよくし宋の前廢帝の側近となり、跳刀で白虎幢の高さ五六尺まで飛び上がり接げば当たらぬことなく、髀を撫でて拍張する様は儇捷と評された。侠轂隊主・細鎧左右に補せられ、夀寂之とともに前廢帝を殺害。明帝即位後は直閤將軍・重安縣子。
- 若い頃、草中で狩りをしていた際、烏豆のような虫が体に集まり、それを摘み取ると流血する場所があった。これを忌んで道士に占わせると「これは封侯の瑞である」と言われ喜んで都に出て仕えた。後に既陽令に補せられ、かつて争った小吏が逃亡して連行された際、厚遇して「私はすでに既陽縣を得たが、お前はいつ司徒公を得るのか」と語った。
- 既陽縣に赴任する際、陸主山下で他の船と同時に出発したが敬則の船だけ進まなかったため、弟に水中を探らせると烏漆の棺が見つかった。呪って「もし吉であれば船を速く進めよ、富貴を得たら改葬しよう」と言うと船は進み、縣に着くとこの棺を葬った。当時軍荒の後で縣内に劫盗の残党が山に逃げ込んでいたが、敬則は劫帥に自首を勧め、廟神の前で誓いを立てて許すと約し出頭させた後、宴席で捕縛し「神への誓いを破ったら私が十頭の牛を差し出す」と言って十牛を殺し神に謝し諸劫を斬った。百姓はこれを悦んだ。
- 元徽3年、齊高帝に従い桂陽賊を新亭で拒ぎ、羽林監陳顯達・寧朔將軍高道慶とともに舸で迎撃し賊の水軍を大破。事平定後、南太山守・右侠轂主に転じ、越騎校尉・安成王車騎參軍を歴任。蒼梧王(廢帝)が狂虐で左右も不安であった頃、敬則は高帝の威名を頼み帰誠し、当直から下がるたびに領軍府へ赴き夜に青衣で忍んで動静を伺った。高帝は敬則を殿内で機を伺わせた。楊玉夫が蒼梧王の首を持って敬則の元へ来ると敬則は馳せて高帝に謁見、戎服で入宮し永明門に至るが、門郎は蒼梧王ではないと疑い、敬則は刀の環で窐孔を塞ぎ急いで開門を呼びかけた。衞尉丞顏靈寶が高帝が馬で外にいるのを見て「今開けねば内領軍が天下の乱を招く」と親しい者に語り門を開いた。敬則は高帝に従って入殿した。
- 昇明元年、輔國將軍・臨淮太守に遷り殿内の宿衞兵事を知った。沈攸之の乱が起こると冠軍將軍に進み、高帝が朝堂を守る中、袁粲が挙兵し領軍劉韞・直閤將軍卜伯興らが宮内で呼応しようとしたが、敬則は関を開いて掩襲しことごとく殺し、殿内の事変を平定したのは敬則の功であった。政事の大小は皆敬則に委ねられ、敬則は書を識らなかったが決断力に優れていた。齊臺建設後、中領軍。高帝が受禪する際、材官が太極殿の柱を薦め易えたが、順帝は土を避けるのを嫌がり出宮せず、遜位の日にも宮内に隠れたため、敬則は輿を持って迎え啓譬して出させた。順帝は「殺されるのか」と敬則に問い、敬則は「他宮に居を移すだけです、あなた様(順帝)が先に司馬家からこの位を取ったのも同様のことでした」と答え、順帝は泣いて指を弾き「後身には二度と帝王家に生まれぬように」と願った。敬則の手を取り「必ず心配は要らぬ、輔国に十万銭を賜おう」と語った。
地方官としての治績と昇進
- 齊建元元年、都督・南兖州刺史・尋陽郡公。妻懷氏も尋陽國夫人に封ぜられた。建元2年、魏軍が淮泗を攻めた際、鎮を捨てて還都したため百姓が驚き逃げ散ったが、功臣であるため咎められず都官尚書、後に吳興太守に遷った。郡は元来盗掠が多かったが、路上の遺物を取った十数歳の子供を殺してさらしたところ、以後路に落し物を拾う者がなくなり劫盗も絶えた。また盗人を捕えて親族の前で鞭打ち、街路を掃除させる役を課し、久しくして盗人自身に旧盗を代わりに挙げさせたところ、他の盗人は身元が知られるのを恐れて皆逃げ去り境内は清まった。烏程を訪れた際、屠肉店の看板を見て「呉興には昔なかった、私が若い頃作ったものだ」と旧友を招いて飲み平生を語り合った。
- 護軍に遷り家を府に充て、改葬のため一時去職。敬則の母は尋陽國太夫人を贈られ、侍中・撫軍に改授された。高帝の遺詔により本官のまま丹陽尹を領し、まもなく㑹稽太守・都督に遷り、永明2年、鼓吹一部を給される。㑹稽の沿海地帯では帯湖海人が丁も士庶もなく塘役を保っていたが、敬則は功力を評価し銭に換算して臺庫に送るよう定め、上(武帝)はこれを許した。永明3年、征東將軍に進む。宋の廣州刺史王翼之の子妾路氏が酷暴で婢妾を殺した際、翼之の子法朗が訴え出たため敬則は山陰獄に付し殺したが、路氏の家がこれを訴え、山陰令劉岱が棄市の刑に処された。敬則が入朝した際、上に「人命は重い、誰の判断で殺したのか、なぜ奏上しなかったのか」と問われ、敬則は「私の愚意による、法をどう用いるか私が何を知ろうか、背後に節を見れば人を殺してよいと思っただけだ」と答え、劉岱も罪を認めたため上は赦した。
- 敬則は公位のまま郡を領し、後に王儇とともに開府儀同三司に即く。徐孝嗣が崇禮門で王儇に会い「今日はまさに連璧と言うべきだ」と嘲ると、儇は「不意にも老子(自分)が韓非(敬則を暗に指す)と同伝になろうとは」と答えた。これを聞いた敬則は欣然として「私は南沙縣の一小吏から幸運にも細鎧左右となり風雲に乗ってここまで来た、王衛軍(儇)と同日に三公に拝せられて何の恨みがあろうか」と語り、恨む色はなかった。朝士はこれを多とした。
- 永明11年、司空を授かる。敬則は名位が達しても富貴に驕らなかった。散輩であった頃、魏へ使いした際に北館に楊柳を植えたが、後に員外郎虞長曜が北使から還り「昔植えた楊柳は今どのくらい大きいか」と問うと「虜中では甘棠と呼ばれています」と答えた。武帝が群臣に詩を賦させた際、敬則は「私はこの度は落第するだろう」と言い、理由を問われて「私が書を解すなら尚書都令史にしかなれない身分だったろう、今日のようにはなれなかった」と答えた。敬則は書に通じずとも性は警黠で、郡を治める際は文書を省み教令を制するのに理を失わなかった。
- 明帝が輔政して廃立を密かに謀った頃、隆昌元年、敬則は㑹稽太守・都督に出され、海陵王が立つと太尉に進んだ。明帝即位後、大司馬。臺使が拝授の日に大雨が降り、敬則は文武ともに顔色を失ったが、傍らの客が「あなたは元からこうだ、昔丹陽尹・呉興太守を拝した時も同様だった」と言うと敬則は大いに悦び「私は宿命的に雨を得る運だ」と羽儀を引き朝服を整えて庁事に赴き拝受した。しかし内心は満たされず、久しく舌を出していた。
- 帝はすでに多く殺害しており、敬則は高武以来の旧臣として憂懼を懐いた。帝は表向き礼を厚くしたが内には疑いを抱き、しばしば敬則の飲食や体調を訪ね、老衰を聞き、また内地に居ることで少し安堵していた。後に蕭坦之に齋仗五百人を率いて晉陵を巡らせたため、都にいた敬則の子らは憂怖して為す術がなかった。上が梁武帝に対策を問うと「敬則は豎夫で感じやすい、子女・玉帛を賜い使人を厚遇するだけでよい」と答え、上はこれを納れた。呉人張思祖は敬則の謀主で府司馬であったが、頻繁に使者を送って偽って厚遇された。遊撃將軍として敬則の世子仲雄を都に招いた。仲雄は琴をよくし、江左に伝わる蔡邕の焦尾琴を主衣庫から5日ごとに借り、御前で懊儂曲を弾き「常に負情を歎いていたが、郎は今まさに実行された」「君の行いが不浄なら心はどうして悪人を非難できよう」という歌詞を歌い、帝はますます猜疑を深めた。
- 永泰元年、帝は病んで危殆に瀕したことが度々あり、張瓌を平東將軍・呉郡太守として兵佐を置き敬則を密防させた。内外に処分があるとの噂が伝わり、敬則はこれを聞いて「東(張瓌の任地)に今は誰がいるのか、これは私を平らげようとしているのだろう、しかしそう容易く平げられるものか、私は最後まで金甖(毒酒)は受けぬ」と語った。子らは怖懼し、第5子幼隆は正員將軍徐嶽を遣って徐州行事謝朓に事情を告げ計を求めたが、同意すれば敬則に報告するはずが、朓は嶽を捕え急いで啓上した。敬則の城局参軍徐庶の家は京口にあり、その子が密かに庶に報せ、庶はこれを敬則の五官王公林(敬則の族子で信頼が厚い)に告げた。公林は急ぎ啓上して息子たちの助命を願うよう勧めたが、敬則は「もしそうなら息子たちから何か知らせがあるはずだ、一晩待とう」と答えた。
- その夜、敬則は僚佐文武を呼んで摴蒱の博打をしながら「お前たちは私に何をさせたいのか」と問うたが誰も答えなかった。防閤丁興懐だけが「あなたはただ行動すべきです」と答えると、敬則は黙って翌朝、山陰令王詢・臺傳御史鍾離祖願を召し横刀を帯びて坐り「兵を発すれば何人集まるか、庫にはいくら銭があるか」と問うたが両者の答えは意にかなわず、怒って斬ろうとしたところ、王公林がまた「もう一度お考えください」と諫めると、敬則はその顔に唾して「小僧、私の行動に何の関係がある」と言い、二三日で挙兵し衣を整えた。前中書令何𦙍を劫略して尚書令に推そうとしたが、長史王弄璋・司馬張思祖が「何令は高蹈の士でありきっと従わないでしょう、従わねば殺すことになり、大事を起こす前に朝賢を殺すのは事を成し難くする」と止めた。実兵1万で浙江を渡る際、檄文を作るべきだとの声に思祖が「あなたは今すぐ朝廷に帰るべきです、これを作って何になりましょう」と止めた。
- 朝廷は輔國將軍前軍司馬左興盛・直閤將軍馬軍主胡松に3千余を率いさせ曲阿の長岡に塁を築かせ、尚書左僕射沈文秀を持節都督として湖頭に屯させ京口路を守らせた。敬則は旧将として挙兵したため百姓は担ぎ物を持って随行し十余万衆に膨れ上がり武進陵口に至ると号泣しながら肩輿に乗って進み、興盛の軍と山陽で二柴を尽くして激戦したが官軍は敵わず退こうとするも囲みが開かなかったため各々死戦した。胡松の馬軍がその後方を突くと白丁は器仗を持たず驚き散った。敬則は大声で叫び馬を求めたが再び乗れず、興盛軍の袁文曠に斬られ首を伝えられた。
- この時、上(明帝)の病はすでに篤く、敬則が突然東で挙兵したことに朝廷は震撼した。東昏侯は東宮にあり反乱に加担しようと考え、人を屋根に登らせ征虜亭の火事を見て敬則の軍が来たと思い、慌てて逃げようとしたが、告げる者があり「檀公の三十六策は逃げるが上策という、汝父子(東昏父子か)はただ急いで逃げるだけだろう」と敬則が語ったといい、これは檀道濟が魏を避けた故事を諷したものだった。敬則の来襲は勢いが盛んであったが、10日で敗れた。時に年64。朝廷は首を漆で固めて武庫に蔵したが、梁天監元年、故吏夏侯亶が収葬を表請し許された。