南史卷四十三 列傳第三十三齊髙帝諸子下 長沙威王晃
長沙威王晃
- 字は宣明、高帝の第四子。少くして武力があり高帝に愛された。昇明二年、兄映に代わり淮南・宣城二郡太守。晃は弓馬を能くし、沈攸之の事変が起きた際、晃は多くの武容の兵を率い都街に赫奕とし、当時の人は「煥煥たる蕭四繖」と語った。その年西中郎將豫州刺史監三州諸軍事に転じた。高帝践阼後、晃はしばしば政事を進言したが典籤に阻まれ、晃がこれを殺すと上(高帝)は大いに怒り手詔で杖を賜った。南徐州刺史都督に転じた。武帝が皇太子であった頃、武進陵で曲阿後湖の闘隊を行った際、晃に馬軍を統率させたことを上(高帝)が聞いて不悦であった。高帝は崩御に際し晃を武帝に託し「輦轂に近い藩の任に就け、遠くへ出すな」と命じた。
- 永明元年、晃は都督南徐州刺史から中書監に入った。当時諸王が都下で武器を蓄えることは禁じられ、捉刀左右四十人のみが許されていたが、晃は武を愛し□(底本欠字)、徐州を退く際に数百人分の武具を私かに載せて都に持ち帰り、禁司に発覚して江中に投げ捨てさせられた。帝は大いに怒り法で糾そうとしたが、豫章王嶷が稽首し涙を流して「晃の罪は許されるべきではありませんが、陛下は先朝が白象(晃の幼名)を思われたことを憶えておいでください」と述べ、上も涙を流した。高帝は崩御が迫った際、武帝に「宋室が骨肉で争わなかったならば、他族がその隙に乗じることはなかったであろう、深く戒めよ」と諭したため、武帝は終始異心を持たなかったが、晃も特に親寵されることはなかった。当時の論者は「武帝は魏文帝より優れ漢明帝には及ばない」と評した。後に車騎將軍侍中を拝命し薨去、開府儀同三司を追贈。
- 武帝がかつて鍾山に幸した際、晃は駕に従い馬矟で道端の枯れた蘖を刺したが、上が左右数人に引かせても銀の纏いばかり巻き取れて矟は抜けなかった。晃に馬を馳せて抜かせると難なく抜けた。以後遠方の州から駿馬が献上されるたびに上は晃に華林苑で調試させた。高帝は常に「これは我が家の任城(曹彰)だ」と語り、武帝もこの意を汲んで諡を威とした。