南史卷三十九 列傳第二十九 殷孝祖
劉悛(字は士操、劉勔の子)。父の戦死後も斉の高帝・武帝に重んじられ、益州刺史として蜀の統治や鋳銭事業にあたった官僚。鬱林王期に一時誅殺されかけたが明帝に救われ、東昏侯即位後まもなく卒した。
出自と最期
- 陳郡長平の人。曾祖の殷羨は晋の光禄勲だったが、父・祖父は顕職に就けなかった。
- 孝祖は若くして誕放な気性で酒色を好み、気概と才幹があった。宋の孝武帝の代に軍功で積射将軍まで昇った。
- 前廃帝景和元年(465年)、兖州刺史となる。明帝が即位すると四方で反乱が起こり、孝祖の甥である司徒参軍・潁川の荀僧韶が孝祖に入朝勤王を説いた。孝祖はその日のうちに妻子を棄て、文武二千人を率いて僧韶とともに都へ帰還した。
- 当時朝廷は丹陽一郡しか保持していなかったが、孝祖の到着で人心が安定し、冠軍将軍に進み仮節督前鋒諸軍事となった。諸葛亮伝来の筒袖鎧・鉄帽(二十五石の弩でも射通せない代物)を賜った。
- 泰始二年(466年)三月三日、賊軍と赭圻で交戦。常に鼓と車蓋を身近に置いて戦ったため、軍中では「必ず死ぬ将」と評された。この日、流れ矢に当たって戦死。建安県侯を追贈され、諡は忠。
殷琰(孝祖の族子)――経歴
- 字は敬珉。父は道鸞、宋の衡陽王義季の右軍長史。琰は若くして文帝に見出され、琅邪の王景文と並び称された。
- 前廃帝永光元年(465年)、黄門侍郎を経て山陽王休祐の右軍長史・南梁郡太守となる。休祐が入朝すると琰が府州の事を代行した。
- 明帝泰始元年(465年)、晋安王子勛が反すると豫州刺史に任じられる。土地の有力者だった前右軍の杜叔宝らが同調を勧めたが、琰には自前の部曲がなく叔宝に制せられた。
- 泰始二年(466年)正月、帝は輔国将軍劉勔を遣わして討伐させ、長囲を築いて夀陽を攻めた。十二月、琰はついに降伏。病身を板に乗せ諸将とともに面縛して罪を請うたが、勔は撫でて宥し誅殺しなかった。
- 後に少府、給事中を加えられ官にて卒す。性は和雅で静素、前代の故事に通じていた。揚州刺史王景文・征西将軍蔡興宗・司空褚彦回らと親交があった。