南史卷三十五 列傳第二十五 顧琛

顧琛(字は𢎞瑋、呉郡呉の人)。晋の司空顧和の曾孫にあたる呉郡随一の名族出身の官僚。機知に富み文帝の信任を得て要職を歴任したが、彭城王劉義康や竟陵王劉誕との関わりから幾度も浮沈を経験した。明帝泰始初年には反乱に加担して敗れるも帰順し、天寿を全うした。

年表(6件)
  • 元嘉七年到彦之敗戦後の武庫の実情を機知により秘匿し文帝に賞される
  • 十五年義興太守となる
  • 十九年東陽太守を固辞し忤旨により廃黜される
  • 孝建元年呉郡太守として起義の功により永新縣五等侯に封ぜられる
  • 大明元年張闓母喪事件で孝武帝の怒りを買い免官となる
  • 泰始初年四方の反乱に呼応して挙兵するも敗れ、のち帰順する

呉郡の名族

  • 顧琛は字を𢎞瑋といい、呉郡呉の人。晉の司空・顧和の曾孫。祖父の顧履之、父の顧惔はともに司徒左西曹掾。謹厳実直で浮華を尚ばず、州從事・駙馬都尉から尚書庫部郎に累進した。元嘉七年、文帝が到彦之に河南経略を命じたが大敗して武庫の兵器を失い、宴席で帰化人に武庫の在庫を問われた際、琛は機転を利かせ「十萬人分ある」と答え、実情を秘匿した機知を文帝に賞された。
  • 尚書省の門の出入りに関する規則を巡り、宗人・顧碩の代わりに便宜を図った件で翌年譴責され免職。彭城王劉義康に請われ司徒錄事參軍に復し、十五年に義興太守。義康は琛を腹心にしようとしたが、琛が劉湛に従うことを望まなかったため疎まれ地方へ出された。十九年、東陽太守として義康の監視を命じられたが固辞し忤旨により廃黜、長く家に籠った。
  • 元凶の弑逆後、会稽五郡を分けて置かれた州の刺史・隨王劉誕のもと会稽太守となり、誕の挙兵に冠軍將軍を加えられた。事平後は呉興太守、孝建元年に呉郡太守として起義の功により永新縣五等侯に封ぜられた。大明元年、呉縣令張闓の母の喪の非礼をめぐる事件で、琛が事情を吹聴し文秀の留任を図ろうとしたことが孝武帝の怒りを買い免官となった。
  • 母の老齢で家に留まったが、竟陵王劉誕の反乱で誕と親しかった琛父子に異心を疑われ、孝武帝は呉郡太守王曇生に誅殺を命じた。誕の使者・陸延稔が先に到着したため琛らは直ちにこれを斬り、二子に首級を送らせて奏聞したことで危うく難を逃れた。
  • 琛の母・孔氏は当時百余歳、晉の隆安初年に琅邪王廞の乱で「貞烈將軍」として女官を率いたと伝わり、孫恩の乱の際は東土の飢饉に家財を放出して人々を救い、生まれた子に「孔」の名を与える者が多かったという。琛は呉興太守に再任されたが翌年郡人の貨幣不正で免官、都官尚書を経て廢帝の即位後に呉郡太守。かつて景平年間、方山で船を泊めた際「顧呉郡」の名を騙る者が現れた奇譚があり、琛は郡守就任を機に方山に廟(白馬廟)を建てたという。
  • 明帝泰始初年、四方の反乱に呼応して兵を挙げたが敗れ、母を奉じて会稽へ逃れ、臺軍の到着後帰順。のち員外常侍・中散大夫で没した。次子の寳先は大明中に尚書水部郎となったが、かつて琛を弾劾した左丞・荀萬秋がなお在職していたため拝任を辞退、孝武帝は「弾劾に軽重の別なく私怨を持ち込むべきでない」と有司を戒めた。宋代の江東名族には会稽の孔季恭・その子靈符、呉興の丘深之、そして琛が並び称され、琛は呉音を変えなかったという。丘深之は字を思𤣥といい侍中・都官尚書で没した。