南史卷三十五 列傳第二十五 顧覬之

顧覬之と孫・憲之

  • 顧覬之は字を偉仁といい、呉郡呉の人。高祖父の顧謙(字公讓)は晉の平原内史で陸機の姉婿、祖父の顧崇は大司農、父の顧黄老は司徒左西曹掾。謝晦の衛軍參軍として雅素を愛され重用された。尚書都官郎に至ったが、劉湛・殷景仁の対立の中で殷景仁と長く関わらぬよう脚気を理由に辞職、夜ごと牀上を歩き回る奇癖を家人に怪しまれた。義康の失脚に伴う粛清を免れた。
  • 山隂令として三万戸の劇務を簡素な統治で処理し、宋代随一の名令と称された。尚書吏部郎として文帝の御前で江東人物を論じた際、袁淑に「南人は怯懦で賊にはなれまい」と言われ「卿はそれで忠義を笑うのか」と応じ袁淑を赤面させた。孝建中に湘州刺史として治績を挙げ、大明元年に度支尚書・吏部尚書に転じた。
  • 沛郡相縣の唐賜の妻・張氏が夫の遺言に従い遺体を解剖した事件で、三公郎・劉勰は「哀情によるもの」として寛大な処置を求めたが、覬之は「妻子による遺体損壊は容認できぬ」として厳罰を主張し、その議が通った。呉郡太守として、権勢を恃む幸臣・戴法興にも媚びなかったことを蔡興宗に評され「辛毗の『孫劉は我を三公にせぬだけだ』の故事」を引いて答えた。湘州刺史で没し諡は簡子。子の綽が私財を蓄え郷里に貸金を負わせていたのを覬之は郡守就任時に文券を焼かせ返済不要とした。人の運命は天分によると考え、弟の子・愿に「定命論」を作らせた。愿は字を子恭といい、父の顧深之は散騎侍郎、才を好み太子舎人で没した。
  • 覬之の孫・憲之は字を士思といい、清直な性格。宋元徽中、建康令として盗牛の疑獄を、牛を放って本来の主のもとへ帰らせる方法で解決し「神明」と称された。権勢者の請託にも法を枉げず、政に励んで人望を得たため、都下では酒の味を「顧建康」と呼んで称えたという。
  • 齊代、衡陽内史として疫病で死者が相次ぎ棺が高値で葦席に包まれ放置される惨状を見て、属県に触れを出し親族を捜させ埋葬を進め、身寄りのない者には公祿で葬儀を営ませた。土俗の「祟り」を理由に墓を暴き遺骨を洗う風習を戒め改めさせた。刺史王奐が「衡陽だけ訴訟がない、これが顧衡陽の教化だ、九郡がこうであれば何も憂うことはない」と嘆じたという。
  • 東中郎長史として会稽郡事を行った際、齊武帝の寵臣・呂文度の不法な邸を廃し、文度の死後も哀悼の礼を通さなかった。西陵戍主・杜元懿が呉興の凶作・会稽の豊作を利用し牛埭税の増徴を求めた際、憲之は「牛埭は元来通行の便宜のためのもので、公私が利するがゆえに民は納税に怨みを抱かなかった。監督者が私利を図れば人の生業を害する」と反対する上奏を行い、呉興の窮乏や重税の弊害、士人・貧民の負担の実態、税制の複雑さによる冤罪の連鎖などを詳細に論じ、税制改革の必要性を訴えた。武帝はこれに従った。
  • 方直の名で知られ、南中郎巴陵王長史・南兖南豫二州事を歴任、典籤の諮事にも私情を交えなかった。竟陵王が宣城・臨成・定陵の三県境に数百里の禁苑を設けようとした際、これを諫めて中止させた。給事黄門兼尚書吏部郎中に遷った際、祖父・覬之がかつて庭に嘉樹を植え「憲之のために植えた」と語った故事が実現したと評された。永明中、豫章内史として清簡な統治を行い、孀婦・萬晞の貞節を賜物で表彰した。
  • 梁武帝の建業平定後、揚州別駕從事史に召されたが着任前に禅譲があり、風疾のため呉へ帰り太中大夫を加えられた。長く郡守を歴任しながら財産を持たず、帰郷後は貧窮した。天監八年に没した。臨終に子への遺令として、生死は昼夜のごとく自然であり、精気は天に、骨肉は地に帰すとする達観を述べ、莊周・王孫の葬送観を引きつつ「中都の制」に倣った簡素な葬儀(棺は身を覆うのみ、輴車に麤布をかける、祭祀は乾飯・寒水程度)を指示し、日常の祭祀も蔬食を用いるよう命じた。詩賦銘讚と「衡陽郡記」数十篇を著した。

史論

  • 利は人の智を昏くするというが、まことに利害の相克は甚だしい。劉湛は才幹に富み経国の識量を備えていたが、弟(義康)を君に等しく奉じ兄(文帝)を主として遇する道理を乱したことで君臣・兄弟の義を損ない、姦計をもって自滅を招いた。庾悦が鵝の炙り肉を出し惜しんで禍を招いた話は、かつて華元が羊羹の恨みで敗れた故事に似る。庾登之は禍を転じて福となしたが、その因果は定めがたい。庾仲文が賄賂によって災いを招いたのは、財を貪った過ちである。顧琛の呉郡太守就任は若き日の占いに徴が現れており、顧覬之の清白な生き方は晩年に至って明らかとなり、顧憲之の治績は時代を経ても称賛された。三代にわたり徳を失わなかった例は古人にも稀であり、その遺命の様は始めと終わりを全うした者というべきである。