南史卷三十四 列傳第二十四 周朗

周朗と一族

  • 周朗は字を義利といい、汝南安成の人。父の周淳は宋初に侍中・太常。兄の周嶠は武帝の第四女・宣城公主の婿。朗は奇を好み風気があり兄と気風が合わず、江夏王劉義恭の太尉參軍を務めた。元嘉二十七年、義恭の彭城出鎮に伴う徴発を機に解職。義恭の府主簿・羊希から進言を勧める書簡を受け、古の道理を引いて応じた。
  • 孝武帝の即位後、建平王劉宏の中軍錄事參軍となり、百官への直言要請に応じて得失を陳べたが誇張が過ぎ免職。廬陵内史となった際、母・薛氏に狩猟を見せようとして火を放ち郡の官舎を焼失させ、俸給で弁済し辞職。孝武帝に「猛獣が三度人を食い虫鼠が稼穡を害した」と釈明したが「小事にすぎぬ」と一蹴された。母の喪に礼法を外れて哭き続けたことも大明四年に咎められ、「朗は礼を悖り口が過ぎるが小事ゆえ刑を科すには及ばぬ」として寧州へ配流の途上で殺された。

  • 顒は字を彦倫といい、晉の左光祿大夫顗の七世孫。祖父の虎頭は員外常侍、父の恂は帰郷相。族祖の朗に見出され海陵國侍郎から仕え、益州刺史の蕭恵開に才を認められ蜀に随行、厲鋒將軍・肥郷成都二縣令・府主簿を歴任。恵開の峻険な性格を諫めた逸話が伝わる。宋の明帝の玄理好みに応じて殿内に近侍し、経典を誦しつつ諫言する形で帝の残虐な行いを和らげた。剡令として恩恵を施し、齊の高帝輔政期には殿中郎・長沙王後軍參軍・山隂令を経て文恵太子の中軍錄事參軍となる。
  • 東宮に近侍し正員郎・始興王前軍諮議として重んじられ、佛理に通じ「三宗論」を著した。西涼州の智林道人がその論を絶賛する書簡を送るほど評価された。鍾山西に隠舎を構え、太子僕・兼著作として起居注を撰し中書郎を兼ねた。衛恒の散隷書法を学び玄圃の壁に文字を書いた逸話や、何胤との倒薤書をめぐる問答、質素な生活を語る「赤米白鹽緑葵紫蓼」の逸話、莱食の好みをめぐる問答が伝わる。国子博士・兼著作となり、四聲切韻を初めて著した。官にあって没した。

  • 捨は字を昇逸といい、顒の子。幼くして聡穎で、顒は臨終に「富貴を憂うるな、道徳を修めよ」と遺言した。詩書に通じ、秀才に挙げられ太學博士に任じた。呉苞との弁論での逸話や王亮の主簿となった経緯が伝わる。太常丞から梁武帝即位後は尚書祠部郎として礼儀の制定に携わった。武帝の詔書で「弟捨」と呼ばれるほど親愛され、鴻臚卿・尚書吏部郎・太子右衛率・右衛將軍を歴任、二十余年帝の側近として国史・詔誥・儀体・法律・軍謀を掌った。范雲の死後、徐勉とともに国政に参与し、清簡さで賢相と称された。文帝紀の名称をめぐる議論で「帝紀の前に略歴を置く」との案を通した。
  • 裴子野との薑(生姜)をめぐる問答の逸話、機密を漏らさぬ人柄、質素な暮らしぶり(塵埃の積もる室内、荻の障子)が伝わる。侍中・太子詹事を歴任し、南津校尉・郭祖深の弾劾で免官となるも右驍衛將軍として詹事の任に復し没した。侍中・䕶軍將軍を贈られ諡は簡子。北伐の議に賛成し功があったため、後に武帝が詔してその功徳を称え名誉を回復した。文集二十卷。子は𢎞義・𢎞信、弟の子に𢎞正がいる。

𢎞正・𢎞讓・𢎞直

  • 𢎞正は字を思行といい、父の寳始は梁の司徒祭酒。幼くして孤児となり弟の𢎞讓・𢎞直とともに伯父・捨に養われた。十歳で老子・周易に通じ、裴子野に才を認められ娘を娶ることを請われた。十五歳で国子生に補せられ、易を講じて諸生に伝えた。国子博士・到洽の推挙で早くから講経を許され、司文義郎・司義侍郎となる。醜貌ながら弁舌に優れ、玄理に通じ当世に重んじられた。藏法師の講席に忍び込み論難して法師を驚かせた逸話、劉顯の懸賞に応じた奇抜な服装の逸話が伝わる。
  • 昭明太子薨去後の皇太子選定に際し古の道義を引いて上奏。徐勉に自薦の書を送り国子博士に転じ、宋元凶が講じた孝經の碑を廃した。城西の士林館で講義し朝野に聴衆を集めた。周易の疑義五十条を上奏し乾坤二繫の解釈を諮問された。平西邵陵王府諮議參軍として罪に問われ流罪となったが武帝の詔で赦された。天文占候に通じ、大同末に兵乱を予見し弟の𢎞讓に語った。侯景の乱では諂って王偉に付き、周石珍と合族して景の諱を避け姫氏と改姓、太常として景の簒奪の礼儀を掌った。
  • 王僧辯の東討軍が至ると、元帝の下問に対し王僧辯は「𢎞正こそ機を見るに敏く、独決の明がある」と評した。𢎞正が至ると僧辯は厚く迎え、黄門侍郎・侍中省・左戸尚書・散騎常侍を歴任。犢鼻褌姿を弾劾された逸話も伝わる。元帝の著「金樓子」には𢎞正を含む名士が列挙されている。侯景平定後は祕府図籍の校讐を命じられた。
  • 遷都の議において、元帝は江陵に留まる意向であったが、𢎞正は建業へ戻るべきと繰り返し諫言し、王褒とともに元帝の下問に答えた。他日、黄羅漢・宗懔が「𢎞正・王褒は東人ゆえ東遷を勧めるのは私心だ」と非難したのに対し、𢎞正は「東人が東遷を勧めれば私計というなら、西人が西に留まるのも私計ではないか」と反論した。武昌太守・朱買臣(旧宦官)の言葉に元帝は深く感じ入ったが結局遷都は行われなかった。魏の江陵攻略後、𢎞正は建業へ逃れた。
  • 太平元年、侍中・領國子祭酒、太常卿・都官尚書を歴任。陳の武帝の代に太子詹事、天嘉元年に侍中・國子祭酒として長安へ宣帝を迎えに赴き、三年に周から帰還。廢帝の代に領都官尚書として五禮を総轄、宣帝の即位後は特進・領國子祭酒・加扶、大建二年に尚書右僕射となり東宮で論語・孝經を講じた。玄言と釋典に通じ、六年に官にあって没した。享年七十九。侍中・中書監を贈られ諡は簡子。著書に周易講疏十六卷・論語疏十一卷・莊子疏八卷・老子疏五卷・孝經疏二卷、文集二十卷。子の豫𤣥は十四歳で𢎞正とともに乗った船が転覆した際、𢎞正は助かったが豫𤣥は心驚の病を得た。次子の墳は尚書吏部郎。
  • 𢎞讓は簡素で博学多通だったが不遇で句容の茅山に隠棲した。晩年侯景に仕え中書侍郎となり、人にその理由を問われ「乾坤が入れ替わった今、害を避けるためだ」と答えた。彭城の劉孝先が兄・孝勝に従い蜀の武陵建号に仕えたことと並び批判された。承聖初め國子祭酒、二年に仁威將軍として句容に城を築き「仁威壘」と名付けた。天嘉初め白衣のまま太常卿・光祿大夫・金章紫綬を加えられた。
  • 𢎞直は字を思方といい、幼くして聡敏。梁で西中郎湘東王外兵記室參軍として鮑泉・宗懍・劉綬・劉㲄とともに書記を掌り、諮議參軍を歴任、承制の際に湘濱縣侯に封ぜられ昌州刺史に至る。王琳の挙兵時は湘州にあったが琳の敗後陳に入り太常卿・光祿大夫・金章紫綬を加えられた。方正温厚な気風は兄弟中随一とされ、「三周のいずれが優れるか」との問いに「蜂腰のようだ(中が細く両端が優れる)」と答えられた。太建七年に卒し、享年七十六。葬儀を簡素にする遺言を残した。文集二十卷。子の確は字を士濳といい、容儀美しく寛大な行いで知られ、経史に通じ玄言を好み、都官尚書に至り禎明初めに没した。

史論

  • 文人は素行にこだわらないというのは古今共通の弊であり、それゆえに人に忤らって禍を招く。顔延之・謝靈運はともに宋朝で名を馳せたが、靈運は非業の死を遂げ延之もその生涯でつまずいた。竣は父を弾劾同然の言辞で危険に晒し、忠と言うにはあたらない――親を忍ぶ者は必ず人の親をも忍ぶものであり、竣が孝を忘れたことは免れがたい過ちである。師伯は放縦に振る舞い、その始めのままに終わりを迎えた。対して沈懷文の生き方は古の烈士に比すべきものであり、孔母が畏れたように御史中丞に対する戒めは深い。周朗の始終の節義も卓越しており、顒・捨父子の文雅、𢎞正兄弟の義業も、家門の徳を保った例といえよう。