南史卷三十四 列傳第二十四 沈懷文

沈懷文(?-大明六年頃死、字は思明)。呉興武康の人。孝武帝に仕えた直言の臣で、西州廃止や会稽移鎮、諸皇子の商業独占などに繰り返し諫言したが容れられず、次第に帝の怒りを買い、最後は免官・禁錮の末に死を賜った。

年表(2件)
  • 元嘉二十八年劉誕の広州赴任に伴い記室に召されるも固辞する
  • 大明五年晋安王劉子勛の征虜長史・広陵太守に出され、翌年帰任延期を咎められ免官・禁錮十年、のち死を賜る

直言の臣

  • 懷文は字を思明といい、呉興武康の人。祖父の沈寂は晉の光祿勲、父の沈宣は新安太守。玄理を好み文才があり、「楚昭王二妃詩」で世に知られた。江夏王劉義恭の東閣祭酒となり、父の喪に際し新安郡から贈られた財を全て親戚に分け与え、文帝に賞され奴婢六人を賜った。
  • 隨王劉誕が襄陽を領した際は後軍主簿として謝莊と辞令を掌り、元嘉二十八年、劉誕の広州赴任に伴い記室に召されたが固辞した。弟の懷逺が東陽公主の養女・王鸚鵡を妾としたことに連座し降格。元凶の弑逆後は中書侍郎に任じられたが檄文の起草を拒み、孝武帝の入討軍に加わり竟陵王劉誕の驃騎錄事參軍・淮陵太守となった。星変を理由に西州の廃止・移転が図られた際、懷文は「天の変化に応じるべきは徳であり、西州を空にしても益はない」と反対したが聞かれず、後に西州は結局廃された。
  • 揚州を会稽へ移そうとする議に対しても「封畿・司隸の制はいずれも時宜による便法であり、人心の安んずるところが天意にかなう」と反対したが、これも通らず会稽への移鎮が強行された。撫軍長史として五郡の獄事九百三十六件を審理し公平と称えられ、侍中となって寵遇された。竟陵王誕が広陵で敗れた後、城陥落の惨劇(士庶を裸にして鞭打ち首を石頭に積み「髑髏山」と呼んだ)を諫めたが容れられなかった。
  • 圜丘の祭祀で雨がやみ晴れた吉兆を孝武帝が喜んだ折、懷文は祝辞を述べ「聖明の感応するところ」と称えたが、これは阿諛ではなく事実に即した言葉として評された。揚州移鎮による浙江東の人心の不和や、顔竣・周朗との交誼のため孝武帝に忌避されたこと、士族を将吏に組み入れ逃亡が相次いだこと、絹・綿の過酷な調達により民が疲弊したこと、諸皇子の商業独占などについても直言を重ねたが、聞き入れられるどころか孝武帝の怒りを買い続けた。江夏王劉義恭の子・海陵王劉休茂の誅殺後、諸弟をさらに抑圧しようとする議にも「漢の明帝はその子を光武帝の子と同列に扱わなかったことが美談とされる」と反対し議を止めさせた。
  • 巡幸が度重なることを諫め、王景文とともに雨中の従駕を諫めようとした際、孝武帝は「顔竣を真似るつもりか」と怒りを露わにした。宴席で酒を強いられても懷文は飲まず、孝武帝に異心を疑われた。大明五年、晉安王劉子勛の征虜長史・廣陵太守に出され、翌年女の病を理由に帰任を延ばしたことを咎められ免官・禁錮十年、さらに邸宅を売って東へ帰ろうとしたことで怒りを買い、廷尉に下されて死を賜った。
  • 弟の懷逺は始興王劉濬の征北長流參軍となり、王鸚鵡を妾にした件で広州に流されたが、南郡王義宣の反乱に際し宗慤の檄文起草を助け功により赦された。孝武帝の世を通じて京師に戻れなかったが、前廢帝の世に武康令に復した。「南越志」を撰し、懷文の文集とともに世に伝わった。
  • 懷文の子は淡・深・沖の三人。沖は字を景綽といい、撫軍正佐・記室を歴任、父の獄に際し兄弟で哀しみを尽くし柳元景の同情を得たが結局助命はならなかった。齊の武帝の代に御史中丞・侍中、永明四年に五兵尚書となり、兄弟三人がいずれも御史中丞・司直となったことは晉宋を通じて例がないとされ「腰鼔兄弟」と称された。沖の子・繢は父の喪中に幰車を用いた罪で免官・禁錮となった。沖は武帝に重んじられたが赴任前に卒し、太常を贈られ諡は恭子。
  • 曇慶は懷文の従父兄で、宋の尚書左丞として水旱に備える常平倉の設置を建議したが実現しなかった。大明元年、徐州刺史として裴景仁に「秦記」十卷を撰させ苻氏の事跡を記録させた。謹実清廉と称され、祠部尚書で没した。