南史卷三十三 列傳第二十三 何承天

何承天(?-元嘉二十四年卒、享年七十八)。東海郯の人。宋の文帝に仕えた学者・官僚で、剛直な性格で知られ、暦法に精通し『元嘉暦』を制定、『礼論』を三百巻に整理するなど礼制論議で重んじられた。曾孫の何遜は梁を代表する詩人。

年表(5件)
  • 元嘉三年謝晦討伐に際し対策を問われるも従わず、晦の敗後に出頭して赦される
  • 十六年著作佐郎として国史撰述に召される
  • 十九年国子学が立ち国子博士を領する
  • 二十四年密事漏洩により免官、まもなく卒す(享年七十八)
  • 天監中曾孫の何遜、尚書水部郎を兼ね南平王の記室を掌る

暦法と礼制の議論

  • 何承天、東海郯の人。五歳で父母を失い、徐広の姉である母に育てられた。母は聡明博学で、承天は幼少より薫陶を受けた。宋の武帝の挙兵初め、撫軍将軍劉毅が姑孰に鎮する際、行参軍に召された。毅がある時外出中、鄢陵県の役人陳満が誤って矢を放ち直帥(護衛官)に当たったが人を傷つけなかったにもかかわらず棄市(死刑)の判決が下ったため、承天は「獄は情状を貴び疑わしきは軽きに従うべき、昔、漢文帝の乗輿の馬を驚かせた者を張釈之は蹕を犯した罪として罰金にとどめた、馬を驚かせるのに故意がなかったからだ、今の陳満も鳥を射ようとして人に中てる意図はなかった、律では過誤で人を傷つければ三歳刑とされる、まして傷つけていない場合は罰金で十分だ」と議した。
  • 宋台が建つと尚書祠部郎となり傅亮とともに朝儀を撰した。謝晦が江陵に鎮し南蛮長史に招かれ、晦が衛将軍に進むと諮議参軍領記室に転じた。元嘉三年、晦が討伐されようとした際、対策を問われた承天は「大小・逆順ともに異なる、境外に逃れて全うするのが上策、腹心を義陽に戍らせ夏口で一戦し、敗れれば義陽から北境に逃れるのが次善、これに及ばないだろう」と述べたが、晦は「荊楚は用武の地、戦って決着をつける、まだ遅くはない」と答えた。晦が挙兵すると承天は留府にとどまり従わず、到彦之の軍が馬頭に至ると自ら出頭して罪を認め、赦された。
  • 後に尚書左丞を兼ねる。呉興余杭の薄道挙が劫(強盗)として同籍の期親(近親)が補兵(兵役に補される)制度に問われた際、道挙の従弟の代公・道生らも大功親(やや遠い親族)として補讁の例に含まれるかが争点となり、代公らの母がまだ存命であることを理由に期親に准じて子も補兵とすべきとの意見が出たが、承天は「劫の制で同籍期親は補兵、大功なら対象外というのが本則。婦人は三従(父・夫・子に従う)の礼があり、嫁げば夫に従い夫の死後は子に従う、道挙が劫となった時、もし叔父が存命ならその子は補讁の対象となろうが、道挙が劫となった時点で既に叔父は死去し、代公・道生は従弟で大功の親にすぎず補讁の対象外だ。もし叔母を期親として代公に母に従い補兵させれば、大功不讁の制にも婦人三従の道にも反する。担当者が期親の文言のみに拘泥し男女の別をわきまえなかったことによる誤りだ、代公らの母子はともに赦免すべき」と議した。
  • 承天は剛愎な性質で朝廷の実力者にも屈せず、同僚を侮ることも多かったため僕射殷景仁に評価されず、衡陽内史に出された。西方在任中も士人と多く不和で、郡でも公正でなかったため州司に糾弾され下獄したが、赦により免れた。十六年、著作佐郎として国史撰述に召されたが、他の佐郎はみな名家の若手ばかりで、既に老年の承天は頴川の荀伯子から「妳母(乳母)」と揶揄されると「卿はまさに『鳳凰九子を将(ひき)いる』と言うべきで、妳母とは何ごとか」と応じた。まもなく太子率更令に転じ著作は元のまま。
  • 丹陽溧陽の丁況ら数家が長らく喪に服したまま埋葬しない事案について、承天は「礼に『還葬』とあるのは荒儉(不作の時)に限って質素を許すもの、丁況ら三家は数十年もの間葬らず棺すら用いないのは、まさに禽獣に等しい薄情による、丁氏らの同伍(隣保組織)は長年道義で勧めることも法で戒めることもなかった、十六年冬に新科もなく旧制の申明もない中で突如糾弾するのは隣人の私怨によるものとも考えられる、東方の類似例は多く、江西・淮北でも少なくない、この三家だけを譴責すればかえって恐慌を招く恐れがある、三家は不問に付し、以後埋葬が法に反すれば同伍が即時糾弾する、喪除服後三年を過ぎては遡って告発できない、との定めを作るべき」と議した。
  • 十九年、国子学が立つと本官のまま国子博士を領し、皇太子の孝経講義で中庶子顔延之とともに執経を務めた。まもなく御史中丞に遷る。魏軍南伐の際、文帝が群臣に防御策を求め、承天は「安辺論」を上表し四事――遠地の民を内地に移すこと、城隍を深めて防衛を固めること、車牛を集めて兵器を整えること、丁数に応じ武器を課すこと――を陳べた(詳細は略される)。
  • 承天は囲碁を好み事を廃するほどで、また箏の弾奏にも巧みで、文帝が局子(碁盤)と銀装の箏を賜った際、上表して謝すと、帝は「局子の賜はまさに張武の金(漢の陳平が張武に賄賂を贈って懐柔した故事)のようなものだ」と答えた。承天は古今の知識に博く、張永が玄武湖を開いた際に古墳から柄付きの銅斗が出土し、文帝が朝士に問うと承天は「これは亡新(王莽)の威斗だ、王莽は三公にそれぞれ一つずつ賜り、一つは冢外、一つは冢内に置いた、当時南朝で三台の位にあったのは甄邯だけであり、これは必ず甄邯の墓だろう」と答えたところ、まもなく張永が冢内からもう一つの斗を発見し「大司徒鄄邯の墓」と刻んだ石も出土した。帝は疑わしい議事があると必ず承天に先に諮問し、使者が絶えず往来した。
  • 承天は性格が偏狭で、ある時、主者(担当官)に「天何言哉、四時行焉、百物生焉(天は何も言わぬが四季は巡り万物は生まれる)」と厳しい声で言い放ったことがあり、文帝はこれを知ってあらかじめ「機嫌をよく見て、不興そうならくどくど言うな」と戒めさせた。二十四年、廷尉に遷ることになったが拝命前、帝が吏部郎に登用しようと密かに決めていた事実を承天が漏らしたことで免官となり、家で卒した。享年七十八。
  • 先に『礼論』は八百巻あったが、承天はこれを刪減し類に従って整理し全三百巻とした。前伝雑語の纂集とともに文集も世に伝わった。また『元嘉暦』を改定し、漏刻に二十五箭を用いる法もすべて承天の議によった。曾孫は遜。

何遜――「詩多くして能くする者」

  • 遜、字は仲言。八歳で詩を賦し、弱冠で州の秀才に挙げられた。南郷の范雲がその対策文を見て大いに賞賛し、忘年の交わりを結び、親しい者に「近頃の文人は質に過ぎれば儒に傷つき、麗に過ぎれば俗に傷つく、清濁を含んで古今に通じる者となると、この人を措いて他にいない」と評した。沈約も遜に「私は君の詩を一日に三度読んでも飽きない」と言い、その名声はこのようであった。
  • 梁天監中、尚書水部郎を兼ね、南平王に賓客として招かれ記室の事を掌った。武帝に推薦され呉均とともに寵愛を受けたが、後にやや疎まれ、帝は「呉均は均しからず(公平でない)、何遜は遜らない(謙虚でない)、私には朱异がいるからそれで十分だ」と言い、以後は疎遠になり再び見えることは稀であった。仁威廬陵王記室として卒した。南平王に深く恩顧を受けていた遜が卒すると、王はその柩を迎えて自邸に殯し、妻子にも扶助を与えた。東海の王僧孺がその文を集め八巻とした。
  • 遜の文章は劉孝綽と並び称され、当時「何劉」と呼ばれた。梁の元帝は論を著し「詩多くして能くする者は沈約、少なくして能くする者は謝朓・何遜」と評した。遜の従叔の僴、字は彦夷、も才で知られたが仕官が振るわず「拍張賦」を著して意を寓し、末尾に「東方朔は侏儒(矮人)への待遇に憤ったが、私は火頭(炊事係)と同じく子を養う俸禄しか得られなかった」と記した。位は台郎に至る。当時、会稽の虞騫も五言詩に巧みで遜と並び称され、王国侍郎に至った。他に会稽の孔翁帰・済陽の江避がともに南平王大司馬府記室となり、翁帰は詩に巧みで、避は博学で『論語』『孝経』に注し、二人とも文集があった。

史論

令問令望(名声と人望)は詩人が詠うところ、礼と法をわきまえてこそ、前哲はその美名を広めてきた。范・荀の二公はともに学業をもって自ら著したが、時に応じた誉れは十分でなかった。弘(王弘)は才こそ余りあるも、人望はなお不足していた。蔚宗(范曄)の芸能には人に勝る美点があったが、その行状は何と利害に翻弄されたことか。徐広は仁義を違えず儒行を兼ね備え、鮮之は当時「格佞」と称されたがそれは佞人ではなかったという意味である。松之の雅道は貴ぶべきもの、実にその徳を輝かせた。承天の家訓に基づく素養は、舅氏(徐広)に恥じぬものであった。