南史卷三十三 列傳第二十三 鄭鮮之

裴子野(?-中大通二年卒、字は幾原、諡は貞)。裴松之の曾孫。至孝で知られ、曾祖の遺業を継いで『宋略』二十巻を撰した文章家。梁の武帝に重用され国史・起居注を掌り、檄文起草にも当たった。

年表(4件)
  • 十二年武帝の北伐に右長史として従軍する
  • 景平中徐羨之・傅亮の専権下で豫章太守に出される
  • 元嘉三年王弘の推挙で尚書右僕射に進む
  • 四年卒す

「格佞」の直臣

  • 鄭鮮之、字は道子、榮陽開封の人、魏の将作大匠鄭渾の玄孫。祖父の襲は大司農で江乗令として県に居を構え、父の遵は尚書郎。鮮之は帷を垂れて読書に励み交遊を絶った。桓偉の輔国主簿として初出仕。兗州刺史滕怙が丁零翟に討たれ屍が戻らなかったが、その子羨は仕官を続け、これを批判する声があった。桓玄が荊州で群僚に議論させた際、鮮之は「名教の極みは忠孝、ただ変通は事ごとに異なる、聖人は迹を助けとし、また迹によって罪とすることもある、屈伸と与奪は等しく論じ難い。天は逃れられるものか、伊尹は君を廃した。君は脅されるべきものか、鬻拳は諫めて忠と見なされた。仁は愚かにされるべきか、箕子は同仁とされた。このように実は同じでも名は異なり、誉れも等しい例は枚挙にいとまがない。滕羨のような場合、隠処する者も朝仕する者もそれぞれの立場で咎められないのが通例、その両極を取れば異同がわかる、聖人の教えも『礼有るも時無し』と説く、君子は時に応じて行うもの、必ずしも一つに拘泥すべきではない」と論じた。
  • 宋の武帝の挙兵に累遷して御史中丞となり、剛直な性格で司直の体を得ていた。外甥の劉毅が権勢を握り朝野が皆帰服する中、鮮之だけは武帝に忠を尽くし毅に屈しなかったため毅は恨んだ。鮮之は舅甥の間柄では糺弾できない規定を利用し、書侍御史の丘洹に毅を弾劾させ、伝詔の羅道盛が「詔により問わない」と伝えたが、鮮之はこれで満足した。新たに定められた「長吏が父母の疾で去官すれば三年禁錮」の制について、山陰令の沈淑が父の疾で去職した際、鮮之は「父母の疾に罪を加えるのは義に悖り理に反する、旧に従うべき」と上議し、以後、二品以上で父母や祖父母後継者の墳墓崩壊や疾病で去官する族属は禁錮しないことになった。
  • 劉毅が江陵に鎮するにあたり、武帝が江寧で朝士を集めた宴で毅と摴蒱(賭博)に興じた。両者が局を分けて銭を積み、毅が帝に「先に投げよ」と促すと帝は雉(勝ち手)を出したが不快そうで、しばらくして応じると、毅が続けて盧(最高の目)を出し「公は座席を人に譲らぬ性分と知った」と言い放った。鮮之はこれを見て裸足で床を回りながら大声で叫び続け、毅は不快がり「この鄭君は何者か、甥舅の敬意を失っている」と言った。
  • 武帝は元来軍旅の出で学問には疎かったが、宰相となってからは風流を慕い議論を好むようになり、皆が異を唱えず遠慮する中、鮮之だけは必ず切実に反駁し、帝が理屈で負けるまで容赦しなかった。帝は時に恥じて顔色を変え、その率直さに感じ入り、当時の人々は鮮之を「格佞」(佞臣を正す者)と評した。
  • 十二年、武帝の北伐に右長史として従軍。鮮之の曾祖の晋の江州長史哲の墓が開封にあり、拝謁を願い出て許された。長安に入り、帝が阿房・未央の故地を巡って悽愴の色を浮かべ、秦漢の得喪を鮮之に問うと、鮮之は賈誼の「過秦論」を引いて答え、帝が「子嬰の代で滅んだのはやや遅いくらいだが、始皇の人物眼が優れながら任用に失敗したのはなぜか」と重ねて問うと、鮮之は「佞言は忠に似、奸言は信に似るもの、中人以上でなければその真偽を見分けられない、始皇は中人にすら及ばぬ識見だった」と答えた。渭水のほとりに至ると帝がまた「この地にかつて呂望(太公望)がいたはずだ」と嘆くと、鮮之は「昔、葉公は龍を好んで真の龍を招き、燕の昭王は骨を買って駿馬を得た、公が士人を厚遇すれば天下に人材が絶えるはずがない」と応じ、帝は大いに称賛した。
  • 宋国が建つと奉常に転じた。赫連勃勃が関中を陥落させ武帝が再び北伐を計画すると、鮮之は上表して諫めた。受禅後、太常都官尚書に遷る。傅亮・謝晦の位遇が日々高まる中、范泰が衆人の前で鮮之を「卿と傅・謝は共に聖主に従い闗洛(関中・洛陽平定)の功があるのに、卿だけが僚首に居るのはなぜか、今の返答ぶりでは人と遠くかけ離れている、なんと不肖なことか」と誚ったが、鮮之は熟視するだけで答えなかった。
  • 鮮之は通率な人柄で武帝の前でも言うべきことを隠さなかったため、武帝も憚る一方、篤実で親故の世話をよくし、外出も随行者の望むままに任せることが多く、武帝に特に親しまれた。ある時、内殿で朝貴を集めた宴に鮮之だけが呼ばれなかったが、帝は「鄭鮮之は必ず自分から来るだろう」と言うと、まもなく外から「尚書鄭鮮之が神獣門で用件を伝えたいと申し出ています」と伝えられ、帝は大笑いして招き入れた。このような信頼を受けていた。従征の功で龍陽県五等子に封じられた。
  • 景平中、徐羨之・傅亮が権勢を握ると豫章太守に出された。当時、江州刺史の王弘は「鄭公の徳望は先朝で重んじられ、鍾繇や王朗のような存在だったのに、徐・傅がこれを郡に出したのは何か企みがあるのだろう」と密かに語っていたという。まもなく廃立(少帝廃位)の事態が起こった。元嘉三年、王弘が入朝して宰相となると鮮之を尚書右僕射に挙げた。四年、卒した。文集が世に伝わった。子の愔は始安太守。