南史卷三十二 列傳第二十二 張敷

清談と孝行

  • 敷、字は景胤。生まれてすぐ母が亡くなり、数歳で事情を知ると幼くして哀慕の色を示し、十歳の頃には母の遺品を求め、施し終えた後にただ一つ扇だけを残し、感慕のたびに開いては涙を流した。従母を見ると悲しみに咽んだ。
  • 気品高く風韻に優れ、玄言を好み文章にも通じた。父邵が高士南陽の宗少文と繋辞を論じさせたところ、少文は幾度も屈し、麈尾を握って「吾が道は東にあり(自分の学問は敷に劣る)」と歎じ、以後敷の名声は日々高まった。宋の武帝もその評判を聞き召見して「真に千里の駒だ」と称し、世子中軍参軍とし、しばしば引見した。累遷して江夏王義恭の撫軍記室参軍となる。
  • 義恭が文帝に学識ある沙門を求めた際、たまたま敷が江陵から帰る途中でその沙門と同乗する話が出たが、文帝に呼ばれて「道中で話し相手になれる」と言われても敷は「臣は雑を好みませぬ」と奉じなかった。帝は不快に感じたが、正員中書郎に転じた。
  • 敷の幼名は「樝」、父邵の幼名は「梨」。文帝が戯れに「樝は梨にどう及ぶか」と問うと、敷は「梨は百果の宗、樝など比べられません」と答えた。
  • 中書舎人狄当・周赳が要務を管掌しており、敷と同省の名家として交流を望んだ際、周赳は「もし相手にされなければどうする」と躊躇したが、狄当は「われらもすでに員外郎の身、共に座らぬわけがなかろう」と自信を見せた。しかし敷はあらかじめ二つの床を壁から三、四尺離して設え、二客が着席すると「私から遠ざけよ」と命じて左右に運ばせ、狄当らは色を失って去ったという。このように高踏な身の処し方であった。
  • 音儀を巧みにし、詳緩な立ち居振る舞いに定評があり、人と別れる際に手を執って「相聞を念ぜよ」と言うと、その余韻がいつまでも残ったという。張氏の後進はみな敷を慕い、その気風は敷に始まった。
  • 黄門侍郎、始興王濬の後将軍司徒左長史に遷るが、拝命前に父が呉興で亡くなり、喪に服して十余日水も飲まず、埋葬後も塩菜を口にせず、ついに毀瘠して病となった。伯父の茂度(張裕)が慰めるたびにかえって激しく哭き絶え入るほどで、茂度は「お前を慰めようとして、かえって悪化させてしまった」と嘆き、以後訪れなくなった。喪が明けぬうちに卒した。孝武帝の即位後、その孝行を旌表する詔が下され、居所を「孝張里」と改めさせた。
  • 弟の柬は父の封を襲い通直郎となる。柬は勇力があり猛獣を素手で捕らえるほどであった。元凶(劉劭)に輔国将軍として用いられたが、孝武帝が新亭に至った際、東(へ逃走中)に淮水に落ちて死んだ。子の式が跡を継いだ。弟は沖。