南史卷三十一 列傳第二十一 張種

宰相の器と晩年

  • 種、字は士苗。永の従孫。祖父は辯(宋の大司農・広州刺史)、父は略(太子中庶子・臨海太守)。種は若くして恬静で居処は雅正、無用の交わりを求めなかった。当時「宋称敷演鏡、梁則卷充清、虚学尚種有其風(宋では敷・演・鏡が称えられ、梁では卷・充が清らかとされたが、種にもその風がある)」と言われた。梁に仕え中軍宣城王府主簿となった頃はすでに四十歳を過ぎており、家が貧しく始豊令を求めた。
  • 武陵王紀が益州刺史となり府僚を選び直した際、種は左西曹掾に任じられたが、母が老いていることを理由に辞退し、有司に奏されて黜免となった。侯景の乱では母を奉じて東の郷里に逃れたが、母が卒し、種はその時五十歳ながら過度に痩せ衰え、さらに凶荒で葬儀を延ばさざるを得なかったため、服喪期間が過ぎても家では喪中のように振る舞い続けた。景の乱平定後、司徒王僧弁が種の窮状を上奏し中従事に起用し、あわせて葬礼を整えさせ、葬儀が終わって初めて服喪を解いた。僧弁はまた種が年老いて子がないことを憐れみ、妾と住まいの道具を賜った。
  • 陳の武帝が受禅すると太常卿に任じ、左戸尚書・侍中・中書令・金紫光禄大夫を歴任。種は沈深虚静で識量広く、当時宰相の器と目された。僕射徐陵は種に位を譲る上表をしたことがあり、種は左(上位)に居るべきとされ、時に推重されること甚だしかった。卒して特進を贈られ、諡は元。
  • 種は仁恕寡欲で、顕位を歴任しながらも家産はしばしば底を尽き、終日平然として気にしなかった。太建初年、娘が始興王妃となり、住まいが辺鄙で狭いことから邸宅一区を特別に賜られ、さらに無錫・嘉興県の税収を重ねて賜った。かつて無錫で重罪の囚人が獄にいるのを見た際、寒さを憐れんで日にあてさせたところ逃げられてしまったが、帝は大笑いしそれ以上咎めなかった。文集十四巻がある。種の弟の稜も清静で識度があり、司徒左長史に至り光禄大夫を追贈された。

史論

張裕は宋の初めから早くも覇政に参与し、内外で歴任した官職はいずれも清華の要職であった。子孫たちもみな家名を継いで顕栄を保ち、その美誉は偶然のものではない。思曼(張緒)の身の処し方は簡素であり、人望のあるべき姿に近かった。忠を尽くすとは二心なきこと、信を守るとは百の思惑を絶つことである。永元末、天下が塗炭の苦しみにある中、公喬(張稷)は重囲のうちに大謀を起こしながらも、後に猜疑を受けるところとなった。まして他の場合はなおさらであろう。士たる者の身の処し方には深く議論すべき点がある。四山(張嵊)が死に赴いた道は、その違いを正したものと言えよう。