南史卷三十一 列傳第二十一 張岱

三府での調和と清廉

  • 岱、字は景山。州辟従事から東遷令に累遷。呉興太守殷沖が「張東遷は親が貧しく養う必要があるゆえ下邑に沈むが、いずれ名器は必ず大きく開けるだろう」と評した。後に司徒左西曹掾となるが、母が八十歳で戸籍上の在職期間が満たぬうちに岱は官を去り実家に戻って養った。有司が違制として糾弾しようとしたが、宋孝武帝は「過ちを見れば仁を知ることができる、調べるまでもない」と述べた。
  • 山陰令に累遷し職務を能く治めた。巴陵王休若が北徐州となり未だ政務に親しまぬうちは、岱を冠軍諮議参軍領彭城太守として府州国事を代行させた。以後、臨海王の征虜将軍広州、豫章王の車騎揚州、晋安王の征虜南兖州と三府の諮議を歴任し、三王の行事と典籤・主帥がともに事を執る中、事は成り情も得られた。ある人が「主君が幼く執事も多門なのに、公私にわたり和を保てるのはなぜか」と問うと、岱は「古人は『一心で百君に仕えられる』と言う、私は政を公平に行い人に礼を尽くすのみ、後悔するようなことは起こらない、明闇や長短はただ才の用い方次第だ」と答えた。
  • 黄門郎に入り、新安王子鸞が盛寵で南徐州となり呉郡が割かれてこれに属した際、佐史の人選を厳しく行った孝武帝は岱に「そなたの功績は早くから著しく官歴も豊富、子鸞の別駕として刺史の任を総覧させたい、小さな屈従とは思わず、いずれ必ず大きく報われるだろう」と語った。帝の崩御後、吏部郎に累遷。泰始末年、呉興太守。元徽中、益州刺史加都督となり、数年で益州は安定した。累遷して吏部尚書。王儉が吏部郎として曹事を専断していた頃、岱はしばしば意見を異にし、儉が宰相となってからも不仲であった。
  • 兄の子瓌の弟恕が呉郡太守劉遐を誅した際、斉高帝は恕を晋陵郡に任じようとしたが、岱は「恕はまだ政務に習熟していない、美錦(重要な官職)を軽々しく裁定させるべきでない」と述べた。高帝が「恕の人柄は私もよく知っている、瓌と同じ勲功もある、当然賞すべきだ」と言うと、岱は「家が貧しいから禄を賜るというなら論外だが、功に応じて事を推すというのなら、これは私の家門の恥だ」と答えた。散騎常侍を加えられる。
  • 建元元年、詔で朝臣の序列を定める際、右僕射に岱を擬する案が出たが、褚彦回は「これは過分な優遇だ、別に忠誠あり特に抜擢すべき者がいるなら話は別だが」と述べ、詔は再考され、岱は呉郡太守に出た。高帝は岱が歴任いずれも清直だったことを知っており、郡に着任してまもなく手勅を送り「大郡は任重く一旦の異動は避けたいが、軍務が繁多で実力者が必要、そなたを護軍とし給事中を加える」と伝えた。岱の拝命の際、詔により邸宅を役所とさせた。武帝即位後、再び呉興太守。岱は晩年、呉興でいっそう寛恕の人柄で知られた。南兖州刺史に遷るが拝命前に卒した。
  • 岱はかつて遺命として家財を分けて箱に封じたが、家運が傾くたびに改め直すこと十数年に及んだという。諡は貞。