南史卷三十一 列傳第二十一 張永

張永、字は景雲、張裕の子(?–?)。文才・雑芸に優れ文帝に重んじられたが、元嘉末の北伐で碻磝攻めに失敗して大敗、以後も軍功と敗戦を繰り返した波乱の将帥。晩年は子を失った悲しみを長く引きずったという。

年表(8件)

北伐の将帥と晩年

  • 永、字は景雲。初め郡主簿となり尚書中兵郎に累遷。かねて尚書中の条制は繁雑であったため、元嘉十八年に脩撰の議が起こり、永は刪定郎に転じてこれを掌った。二十二年、建康令に除せられ、任地でいずれも治績を挙げた。広陵王誕の北中郎録事参軍にも任じられた。永は書史に渉猟し文章をよくし、隷書・騎射などの雑芸も一通り巧みで、巧思にも富み、文帝に重んじられた。紙墨も自ら調達し、帝は永の上表や啓文を得るたびに愛玩し「宮中の職人でもこれには及ばない」と感嘆した。
  • 二十三年、華林園・玄武湖の造営を永に監統させ、その采配はすべて永に一任された。永は才能を発揮し尽力し、文帝は将帥の器と見なした。二十九年、揚威将軍冀州刺史加都督とし、王玄謨・申坦らとともに河南を経略させ、碻磝を攻めたが数旬落とせず、魏軍に多くの死者を出した。永は夜のうちに包囲を解いて退却したが諸将に通告せず、軍は驚き乱れて魏軍に乗じられ大敗した。永と申坦は統府撫軍将軍蕭思話に捕らえられ歴城の獄に繋がれた。文帝は度重なる出征の無功に怒り、諸将を用いるに足らずとして永らを思話とともに詔責し、江夏王義恭への書でも「諸将がこれほど無能と早く知っていれば白刃で駆り立てたものを、今悔いても及ばない」と述べた。
  • 三十年、元凶(劉劭)が弑逆・即位すると、永は青州刺史に起用された。司空南譙王義宣が挙兵すると再び冀州刺史加都督に改められ、永は司馬崔勲之・中兵参軍劉宣則に二軍を率いさせ国難に駆けつけさせた。時に蕭思話は彭城にあり、義宣は二人が不和になることを懸念し思話に永と和解するよう書を送り、また永の従兄で長史の張暢にも永を諭させ、廉頗・藺相如の公への忠、周勃・陳平の私心なき美徳に倣うよう説かせた。事平定後、江夏王義恭の大司馬従事中郎領中兵に召された。
  • 孝武帝の孝建元年、臧質が反乱を起こすと、永を武昌王渾の補佐として京口に鎮させた。大明三年、廷尉に累遷。帝は「そなたは張釈之と同姓、天下に冤罪の人をなくしたい」と言った。永は音律に通じ、太極殿前の鐘の音がかすれていた際、孝武帝が問うと永は「鐘に銅滓(不純物)がある」と答え、鐘を叩いてその位置を突き止め、削り取ると音は清らかに澄んだ。
  • 明帝の即位後、青冀二州刺史・監四州諸軍事となり、諸将を率いて徐州刺史薛安都を討ち、連戦連勝、薛索児を破った。鎮軍将軍に遷り、まもなく南兖州刺史加都督となる。当時薛安都は彭城に拠って降を請いながらも誠意がなく、明帝は永と沈攸之に大軍を率いて迎えさせ、督前鋒諸軍事を加えて彭城に進軍させたが、安都は魏兵を招き入れ、永は狼狽して退却し、魏軍に追撃されて大敗、さらに寒雪に見舞われ士卒は離散、永は足の指を凍え落とし、ようやく身一つで逃れ、第四子を失った。三年、会稽太守に転じ都督将軍は元のままとしたが、北征失律の責を負い自ら降格を求め、左将軍に降号した。
  • 永は失った子を痛悼し、常より重い哀を示し、喪服を除いてもなお霊座を立て、生きているかのように飲食・衣服を供え続けた。外出のたびに名車・良馬を別に用意し「侍従」と号し、軍事があれば「郎君にお知らせせよ」と左右に語った。薛索児撃破の功で孝昌県侯に封じられた。
  • 会稽在任中、賓客の謝方童・阮須・何逹之らが権勢を借りて贓貨を蓄えたことが発覚し、方童らは獄死した。永も冠軍将軍に降号された。廃帝即位後、右光禄大夫侍中領安成王師となり、呉郡太守に出た。元徽二年、征北将軍南兖州刺史加都督。永は若い頃から機敏に働き、宣力を志として士卒と苦楽をともにし、朝廷からの下賜品も自ら分け与え、老いても意気は衰えなかったが、悠々自適の生活に満足しており、この任命を大変喜んで即日出発したが、まだ赴任せぬうちに桂陽王休範の乱に遭い、永は所領を率いて白下に屯した。休範軍が新亭に至り前鋒が南掖門を攻めた際、永が偵察に出した者が敵の勝利の噂に惑わされ「台城陥落」と誤って触れ回ったため、永の軍は潰走した。旧臣として罪を問われず、免官削爵にとどめられたが、これを恥じて発病し卒した。