南史卷二十八 列傳第十八 褚玠
字は温理、陳の官僚(?–?)。山陰令として豪猾の摘発に努め、俸禄のみで生計を立てる清廉の吏。後に御史中丞として直繩の誉れを得た。
年表(3件)
- 陳天嘉中(560〜)566年通直散騎常侍として斉に使いする
- 太建中(569〜)582年山陰令に任じられ豪猾を摘発する
- 至徳二年584年秘書監を追贈される
褚玠
- 字は温理、九歳で孤児となり叔父驃騎従事中郎に養われ早くから令誉があった。長じて風儀に優れ占対に巧み、博学能文で訓義は実を重んじ華美を尚ばなかった。陳天嘉中(560〜566年)通直散騎常侍として斉に使いし帰国後中書侍郎。太建中(569〜582年)山陰県で豪猾が横行し歴代の令が贓罪で免ぜられていたため、宣帝が中書舎人蔡景歴に人材を問い玠が推され「甚だ善し、卿の言は朕の意と同じ」と山陰令に任じられた。県の張次的・王休逹らが猾吏と結託し賄賂で戸籍を隠していたのを摘発し、朝廷に報告、宣帝は慰労の勅を与え捜索の助力に人を遣わし、軍人八百余戸を摘発した。
- 舎人曹義達が宣帝に寵愛され、県人陳信の父顕文がその威を借り横暴を働いたため、玠は顕文を捕らえ鞭打った。吏人はこれに震え上がった。信は義達を通じて玠を讒言、免官された。玠は在任中俸禄のみを受け、離任時には自弁の路銀もなく県境に留まり野菜を育てて生計を立てた。ある人が「地方官の器ではない」と評すると、玠は「私は課税に後れを取らず、悪吏や姦悪を除いてきた、もし潤いを得られぬ故に無能というなら、その言葉には従えない」と答え、人々はこれを信じた。皇太子はこれを知り粟米二百斛を賜り都に帰らせた。
- のち御史中丞に累遷、剛毅で膽略あり騎射に優れ、司空侯安都に従い徐州で猛獣狩りをした際、放った矢がすべて命中し獣は即死した。御史中丞として直繩の誉れ高く官にあって没した。皇太子は自ら誌銘を製し旧誼を表した。至徳二年(584年)秘書監を追贈。奏文・雑文二百余篇を残し、その切実な論旨で世に重んじられた。子亮は尚書殿中侍郎。
史論
- 褚氏は江左に至って以来、人材が絶えなかった。彦回は世資と時誉に早くから恵まれたが、時流に迎合して興隆を助けたことで毀誉が沸き立った。人望によって推されたのも、人望によって責められたのも同じ理である。炤の貞勁の性、炫の廉勝の風は、これを古人に求めても勝るものがあるまい。玠の公平で諒直な人柄、文武兼ね備えた資質は、まことに家業を絶やさぬ者であったと言えよう。