南史卷二十八 列傳第十八 褚彦回
河南陽翟の人。宋末斉初の権門宰相褚彦回(?–482年頃、四十八歳没)。容儀に優れ「彦回の緩やかな歩みだけで宰相になれる」と評された美男の重臣。宋の三代に仕え、蒼梧王廃位の際は自ら璽綬を蕭道成(斉高帝)に授けて禅譲を後押しし、斉建国後は司徒・録尚書事に至った。世論には節操を疑う声もあった。
褚彦回
- 幼くして清譽があった。宋元嘉末、魏軍が瓜歩に迫り百姓が荷を負って逃げ惑った際、父湛之は丹陽尹として子弟に草鞋を履かせ避難の練習をさせた。人がこれを譏ると湛之は「安きにあって危うきを忘れぬためだ」と答え、彦回は当時十余歳で恥じ入った様子を見せた。湛之の愛牛が井戸に落ちた際、湛之が自ら救出に奔走し郡中が騒ぐ中、彦回は簾を下ろして見なかった。門生が衣を盗んだのを見つけても「密かに隠しておけ」と告げ立ち去らせ、後に貴顕となってからも罪を問わず元通りに遇した。
- 宋文帝の女南郡献公主に配され駙馬都尉、著作佐郎から秘書丞に累遷。湛之没後、財を弟の澄にすべて譲り書数千巻のみを取った。湛之の宝物二厨は生母郭氏のもとにあったが、嫡母呉県主がこれを求め、郭氏は与えまいとしたが彦回は「私さえいれば財がなくとも困らない」と涙して郭氏に譲るよう頼み、これに従った。都郷侯を襲封、尚書吏部郎。
- 景和年間(465年)山陰公主が彦回を見て慕い、廃帝に訴え西上閣に十日留め置かせて言い寄らせたが、彦回は身を正して屈せず、公主に「あなたの髭は戟のようだが男らしさがない」と言われても「私は不敏だが乱の端となることはできない」と答えた。宋明帝即位後、吏部尚書に累遷。ある人が官職を求め袖に金の餅を隠して面会を求めたが、彦回は「卿は自らの功で官を得られる、この物を受ければ人に知られずとも私が受け取ったことになる」と諭し金を返させ、名を明かさなかった。明帝は藩王時代から彦回と親しく即位後も重用、雩都伯に改封、侍中・尚書右衛将軍を歴任。容儀に優れ立ち居振る舞いに規範があり、諸国使節も目で追うほどで、明帝は「彦回の緩やかな歩みだけで宰相になれる」と評し、当時の人は魏の何晏に比した。
- かつて袁粲邸で琴を奏し、王彧・謝荘が感嘆した逸話がある。降将常珍奇が薛安都と共に叛服を繰り返した際、明帝が重位を与えようとしたのを彦回は「首領を保てば十分、過度の寵は不要」と諫めたが聞かれず、珍奇はまた叛いた。呉郡太守として在任中、明帝が危篤となり急ぎ召され、黄羅の襖(乳母の喪服)を着るよう指示され「文書は函に納め開けるな」と託されるなど後事を頼まれた。建安王休仁の排除を明帝が謀った際、彦回は反対したが「卿は愚かだ」と怒られ、やむなく従った。
- 吏部尚書・衛尉卿・尚書右僕射、母の老病を理由に衛尉を辞そうとしたが許されなかった。明帝崩御後、遺詔で中書令・護軍将軍、尚書令袁粲とともに幼主の顧命を受けた。粲も同じく託されたが実際の信頼は彦回に厚く、彦回は倹約を旨とし百姓はこれに頼った。王道隆・阮佃夫らの専横は止められなかった。生母の喪に哀毀し一年髪も梳らず、喪明けて中軍将軍に復した。元徽二年(474年)桂陽王休範の反乱に袁粲とともに宮省を守り人心を鎮めた。
- 丹陽尹時代、従弟の炤と同乗した際に道で斉高帝の車と出会い「これはただ者ではない」と指し示し、高帝が呉興に出た際にも「この人の才貌は尋常でない、将来計り知れない」と評した。宋明帝崩御の際の顧命に高帝を推挙した。高帝が桂陽王の乱を平定後、中領軍・南兖州に遷ろうとしたが固辞、彦回と袁粲に情を訴える書を送ったが二人は従わせず、高帝は結局受命した。彦回は尚書令・侍中・班剣二十人を加えられ固辞したが三年目に爵を侯に進められ、中書監・侍中・護軍・鼓吹一部を受けた。
- 淮北陥落後、江南で鰒魚が貴重になり一枚数千銭もした頃、彦回は三十枚を贈られたが、門生が売却を勧めると「これは食物であって財貨ではない、売って利を得るものではない」と親しい者に振る舞い、数日で食べ尽くした。翌年嫡母呉郡公主薨去に哀毀骨立し職に留まるよう詔されたが固辞。蒼梧王(後廃帝)の暴虐が募る中、斉高帝・袁粲との対話で粲が「主上の過ちはまだ許容できる、伊尹・霍光の廃立の事は末世に行うべきでない」と述べたのに対し、彦回は黙して高帝に心を寄せた。廃帝廃位に際し袁粲・劉彦節が動かない中、彦回は「蕭公(高帝)でなければこの事は成らぬ」と自ら璽綬を高帝に授けた。
- 順帝即位後、衛将軍・開府儀同三司・侍中、甲仗五十人を加えられた。袁粲は彦回に二心があると疑い「白虹貫日、宋を亡ぼすのはこの人だ」と評し、また「国家が頼るのは公と劉丹陽(劉秉)と私だけ、竹帛の恥にならぬよう」と語りかけたが、彦回は「あなたに寄せる心はある」と答えつつ節を貫かなかった。高帝が輔政し黄鉞を加えようとした際、任遐は「これは褚公に報告すべき大事」と述べ、高帝が「彦回が同意しなければ」と問うと遐は「彦回は妻子と保身のみを望む凡人、抑えられる」と答え、事実そのとおりになった。沈攸之挙兵時、高帝が彦回に諮ると「西方の乱は成就しない、公はまず内を固めるべき」と答え、高帝は密かに備えを固め乱を平定、中書監・司空に進んだ。
- 斉台建立時、彦回は魏の司徒何曾が晋丞相を求めた故事を引き高帝に斉官を求めたが高帝は謙って許さなかった。建元元年(479年)司徒・侍中・中書監、南康郡公に改封。司徒を固辞し、僕射王儉への書で蔡謨の先例に倣おうとしたが儉に諫められ受命した。尚書令も固辞。魏軍の動きに際し高帝が無官の王公以下を従軍させようとしたのを、無益として諫め中止させた。三年(481年)七月、酷暑の中の夜間酎祭を、王儉とともに漢宣帝以来の慣例(夜に廟に入らない)を根拠に諫め中止させた。
- 朝廷の機事に多く関与し重んじられた。ある宴で高帝が「卿らはみな宋の公卿だった、私が天子となるとは思わなかったろう」と問うと、王儉らが答えあぐねる中、彦回は板を斂めて「陛下が早く龍顔を識らなかったのが臣の落ち度」と答え、帝は笑って「朕も光武帝が朱祐を知るのが遅れたことを恥じたものだ」と応じた。彦回は琵琶に優れ、斉武帝が東宮時代の宴で金鏤柄銀柱の琵琶を賜った。度量があり軽々しく動じず、邸が火事になった際も従容と輿を求めて避難した。世には名節を疑う声もあり「石頭城で袁粲のために死んでも彦回のために生きるな」との俗謡もあった。
- 高帝崩御後、遺詔で録尚書事、江左以来単独で「録」を拝した例がなく策書の要否が議論され、王儉は「録尚書は品秩は低いが任は重い、前代は本官と同時拝が多く別に策書がなかった、今回も策書は不要」と論じ、彦回の班剣を三十人に増やし五日に一度朝することとした。まもなく病臥。若い頃に大病した際、夢で卜者の道具を授けられ差えた縁起があり、四十八歳のその年、太白・熒惑が凶兆を示し彦回は自らの死期を悟り遜位を上表したが武帝は許さず、司空・驃騎将軍・侍中・録尚書事に改めた。薨去、享年四十八。家に余財なく数十万の負債があり、詔で東園秘器を給わった。
- 死去に伴う儀礼をめぐり、司空掾属が彦回未拝の間の身分を巡って議論があり、王儉は「婦が嫁ぐ途中で夫家の喪を聞けば服を改めて入る、掾属も朝廷から吏節を受けている以上礼を尽くすべき」と論じ、また晋の中朝の士孫徳祖の先例(赴任前に本国の喪に服した例)を引き司徒府の服喪規定に準じさせた。太宰・侍中・録尚書公を追贈、班剣六十人、葬送の礼は宋の太保王弘の故事に倣い諡は文簡。庶姓の三公の轜車には従来定格がなかったが、王儉の議で品第一に幢絡を加える例が彦回に始まった。妻宋の巴西公主も贈られ南康郡公夫人となった。