褚淡之(秀之の弟)
- 字は仲原、宋武帝の車騎従事中郎・尚書吏部郎・廷尉卿・左衛将軍を歴任。宋受命後侍中。淡之ら兄弟は武帝への忠を尽くし、晋恭帝は男子が生まれるたびに宮人を誘って毒殺させられ、恭帝譲位後は褚后と一室に籠り毒殺を恐れて自ら煮炊きした。武帝が恭帝の殺害を図った際、直接人を送り込まず淡之兄弟に褚后を別室に誘い出させ、その隙に兵が入って毒を進めたが、恭帝は「仏教では自殺者は再び人身を得られない」と拒み、結局被で窒息させられた。
- 会稽郡の欠員に際し朝議で蔡廓の起用が検討されたが、武帝は「あれは蔡家の佳児、人事に関わらせるな。褚仏仏(淡之の小字)を用いよ」と述べ淡之を会稽太守とした。景平二年(424年)富陽の孫氏一族が謀反、支党が永興県に潜伏し永興令羊恂が謀を察知して淡之に報告したが信じられず、逆に誣告として羊恂は職を解かれた。孫法先は冠軍大将軍を自称、孫道慶らと永興を攻略、鄮令司馬文宣を征西大将軍として山陰を攻めた。
- 淡之は自ら陵江将軍を仮し、山陰令陸邵を司馬・振武将軍とし、王茂之を長史、孔欣を参軍、謝苓之ら七十余人を参軍として召集、前鎮西諮議参軍孔甯子(孔季恭の子)ら喪中の者も将軍に起用した。陳願・虞道納の軍が浦陽江を渡ったが敗れ、賊は城まで二十里に迫った。淡之は陸邵の水軍を防禦にあて自らも郊外に出陣、邵は行参軍漏恭とともに柯亭で賊を大破した。淡之はまもなく卒し諡は質。