南史卷二十七 列傳第十七 殷景仁

陳郡長平の人(?–435年頃)。文帝の信任厚く、劉湛との対立の末に劉湛を誅させ、揚州刺史・僕射兼吏部として権勢を握ったが直後に没した。諡は文成公。

年表(5件)

殷景仁

  • 陳郡長平の人。曽祖融は晋の太常、祖茂之は特進左光禄大夫、父道裕は早世。景仁は若くして大成の器量があり、司徒王謐に見込まれ娘を娶った。宋武帝の太尉行参軍から中書侍郎に至る。文を飾らずとも思致に富み、義理を弁じずとも理に通じ、国典・朝議・旧章・記注を記録し当代の志ある人物と目された。百官の推挙制を建議し武帝に重んじられた。少帝即位後、侍中に補されたが辞退を重ね、優詔で黄門侍郎とされた。
  • 左衛将軍を歴任。文帝即位後、遇されること篤く侍中・左衛将軍。王華・王曇首・劉湛とともに四人が侍中となり風力・局幹で並び称された。元嘉三年(426年)謝晦討伐の車駕出征時、司徒王弘が中書省に入り景仁と留任を分担、晦平定後は到彦之が中領軍に、景仁は侍中のまま。文帝の実母章太后早世後、太后が育ての母蘇氏に篤く仕え、六年(429年)蘇氏没時、文帝は漢代の推恩の典に倣おうとしたが、景仁は「漢の推恩は秦の弊を受けた後のもの、儒術が衰えた時代の措置、晋代の朝政を鑑とすべき、公を重んじ私情を抑えるべき」と諫言、帝はこれに従った。
  • 母の喪により固辞するも武帝は綱紀を代拝させ服喪を全うさせた。喪明け後、尚書僕射・太子詹事、劉湛が代わって領軍。湛と景仁はもと親しく共に武帝に重用され、宰相候補と目されたが、湛は外任が多く景仁が朝廷に呼び戻すよう働きかけた。しかし湛は景仁の地位が自分を超えたことに憤り、文帝が景仁を信任するのを覆せないと知ると、司徒彭城王義康に接近しその権勢を頼んで景仁を排除しようとした。十二年(435年)景仁は中書令・護軍将軍・僕射兼吏部に進み、湛はますます怒り義康を通じて讒言したが、文帝の景仁への信頼はいっそう厚くなった。景仁は「相王(義康)の権重は社稷の計に非ず」と密かに諫言。
  • 景仁は親しい者に「彼を引き入れれば人を噛む」と嘆き、病と称して面会を絶ち、帝に許され自宅で療養した。湛は刺客を送り外で殺そうと図ったが、文帝は薄々これを察し景仁を西掖門外の晋鄱陽王邸に護軍府として移し宮禁に近づけ計画を挫いた。景仁は五年間病臥しながら帝と密書を日に十数往復させ朝政の大小をすべて諮問された。周到で誰もその実態を知らなかった。劉湛収捕の日、景仁は衣冠を整え、周囲は彼の病が仮病であったことに気づかなかった。その夜帝は華林園延賢堂に彼を召し出し、脚の病を口実に牀輿で参内させ、劉湛誅討の処分をすべて委ねた。
  • 義康に代わり揚州刺史・僕射兼吏部、印綬を授けられ主簿が代拝を終えると急に病が篤くなり、性格が寛厚から苛烈に変わった。左右に「今年は男女どちらの婚礼が多いか」と問うたり、大雪の日に「あの閣に大樹があるのはおかしい」と言い後で誤りと気づくなど錯乱の兆しを見せた。文帝は先行きを案じ、州から呼び戻し僕射下省で一月余り養生させたが没した。劉湛の祟りと噂された。侍中・司空を追贈、諡文成公。大明五年(461年)孝武帝が景仁の墓を経て祭祀を命じた。子の道矜は幼くして不慧、太中大夫。道矜の子恒は明帝時代に侍中・度支尚書、父の長患を有司に咎められ「道矜は生来病があり別に横死の疾ではない、恒は愚に慣れ久しく清序を妨げた」として散騎常侍に落とされた。