南史卷二十七 列傳第十七 殷淳

陳郡長平の人、字は粋逺(?–434年)。殷景仁の従祖弟。高潔寡黙で文義を好み、秘書閣で「四部書大目」四十巻を編纂した学者官僚。子の孚・沖・淡もそれぞれ官途で知られた。

年表(1件)

殷淳(景仁の従祖弟)

  • 字は粋逺。祖允は晋の太常、父穆は温和謹厳で称された。五兵尚書から宋武帝の相国左長史、元嘉中特進右光禄大夫・始興王師で官にあって没し諡元。子の淳は若くして好学で美名があり、中書黄門侍郎に至った。黄門は清要の職で本来地方に出さないところ、父の老齢を理由に特例で帰宅を許された。高潔寡黙で早くから清尚と称され文義を好み、秘書閣で「四部書大目」四十巻を撰し世に行われた。元嘉十一年(434年)没し朝廷はこれを惜しんだ。
  • 子の孚は父の風を継ぎ、侍中何朂と食事を共にした際、朂が「殷の蓴羮を加えては」と言うと(朂は司空無忌の子)、孚は箸を止めて「何無忌は諱です」と答えた。吏部郎から順帝撫軍長史。孚の子臻、字は後同、名声あり袁粲・褚彦回に重んじられ、二公の席では必ず清談が結びとなった。王儉が丹陽尹となり郡丞に招いたが、袁昻が先に秘書丞を拝した際、臻が代わりの上表を頼まれ「なぜ自分で書かないのか」と断ったところ結局作らなかった。太子洗馬に至る。淳の弟沖、字は希逺、御史中丞・司直の役で称され、度支尚書に再任。元凶劭の妃は淳の娘であったため沖は東宮で劭に重んじられ、劭弑逆・即位後、司隷校尉に任じられ、劭の罪状を記す符を書かされたが孝武帝のためにも尽力し建鄴平定時に賜死。沖の弟淡、字は夷逺、黄門吏部郎・太子中庶子を歴任、大明中(457〜464年頃)文章で知られた。

史論

  • 孔季恭は興隆の主に恵まれ深い旧誼を得ながら、位が崇まり寵が篤くなっても常に謙虚を保った。持満の戒めは古人の跡を追うに足る。孔琇之の貞素の風は不義の地を踏まず、易にいう「王臣蹇蹇、其の動くや直し」に近い。孔奐の身の処し方はこれに近いと言えよう。孔琳之の二つの議論は変通の道に深く達し、孔覬が身を持する節も一時の良臣であったが、他人の言を軽々しく信じたことが晩年の破滅を招いた、惜しむべきことだ。殷景仁の遠大な志は若い頃から表れており、元嘉の盛世に至って宗臣として重んじられ、言えば聴かれ計れば従われたのは、まことに重い美事であった。