南史卷二十七 列傳第十七 孔琳之

字は彦琳、会稽山陰の人(?–423年)。桓玄輔政期に穀帛制・肉刑復活論への反対意見で知られた文人官僚。御史中丞として権門を憚らず弾劾を行った剛直の士。

年表(3件)

孔琳之

  • 字は彦琳、会稽山陰の人。曽祖群は晋の御史中丞、祖沈は丞相掾、父廞は光禄大夫。強正で志力があり、若くして文義を好み音律に通じ囲碁に優れ草隷が巧みだった。桓玄輔政期、太尉西閣祭酒。玄が銭を廃し穀帛を用いようとした際、琳之は「洪範の八政も貨は食に次ぐ、交易の便のため聖王は無用の貨(銭)を作って有用の財を流通させた、穀帛を貨とすれば損失が多く商人の手で摩耗し、切断による損耗も生じる。魏の鍾繇は『巧偽の人は湿った穀を用い薄絹で資に充てる』と述べ、司馬芝も『銭の使用は国を豊かにし刑を省く』と述べた。魏明帝の代に銭を廃し穀を用いた四十年間の不便により、朝議で銭の復活が図られた」と論じ、穀帛制の弊害を明らかにした。
  • 玄が肉刑の復活を議した際も、琳之は「唐虞の象刑・夏禹の立辟は時代の淳薄に応じたもの、三代は風俗が純朴で刑辟は稀だったが末世は巧みで法網にかかりやすい、肉刑を悉く復すのは五帝の異なる法に反する」とし、漢文帝の刑罰改革(棄市を右趾に代える案)を評価しつつも「今の患は逃亡が先、逃げ場をなくし悪の根を絶つことが肝要、それ以外は旧に従うべき」と論じた。玄は人に迎合されるのを好んだが琳之は意に従わなかったため知遇を得られなかった。
  • 尚書左丞・揚州中従事史を歴任し実績を残した。衆官が便宜を献策した際、琳之は独自に「璽印は官爵を示すもの、伝国の璽・襲封の印は代々受け継ぐのが貴い、衆官が異動のたびに印を改鋳するのは無駄が多く金銀銅炭の費用も甚大、一印を通用させるべき」と提言。また「凶門柏装(葬儀の慣習)は礼典になく末代の風習、庶民には過大な負担、廃止すべき」と論じた。尚書吏部郎、義熙十一年(415年)宋武帝の平北征西長史、侍中、宋台建立時に宋国侍中。
  • 永初二年(421年)御史中丞、法を明らかにし屈しなかった。尚書令徐羨之の憲典違反を弾劾、羨之は揚州刺史を兼ねており、琳之の弟璩之が中従事だったため羨之は璩之に琳之への取りなしを求めたが、琳之は「宰相を弾劾した罪は我一身に止まる、お前が連座することはない、何を心配するのか」と拒み、百僚は粛然とした。武帝はこれを高く評価し、蘭台を親臨した。祠部尚書、家産に頓着せず貧しく清廉であった。景平元年(423年)没、太常を追贈。子の邈は父の風を継ぎ揚州中従事に至った。邈の子は覬。