南史卷二十七 列傳第十七 孔奐

会稽山陰の孔氏の一族。若くして孤児となるも学を好み、侯景の乱下でも節を守った。陳の宰相級官僚として清廉・剛直で知られ、太建年間に吏部尚書・侍中を歴任、後主の不興を買いながらも直言を貫いた(?–583年、七十余歳)。

年表(5件)

孔奐

  • 数歳で孤児となり叔父虔孫に養われ好学善文。沛国の劉顕は博学で称され、奐を「蔡邕の蔵書を王粲に譲った故事のように書籍を託すに足る」と称えた。梁で尚書儀曹侍郎、左戸郎沈炯が誣告により重罪に問われかけた際、廷議で弁護し無実を明らかにした。侯景が建鄴を陥落させ朝士が拘束された際、賊将侯子鑒に推挙され桎梏を解かれ厚遇され書記を任された。子鑒は景の腹心で朝士の多くが屈従したが奐だけは屈しなかった。「取り入って生き延びるつもりはない」と述べ、賊の掠奪から多くの士女を守った。
  • 母の喪に際し天下が乱れる中でも三年の喪を全うし、呉国の張種とともに乱世で礼を守り孝を称された。景平定後、司徒王僧辯に招かれ左西掾、梁元帝が荊州で即位すると奐と沈炯が召され、僧辯が留任を請うたところ帝は「孔・沈の二士は今しばらく貸してほしい」と手勅で答えるほど重んじられた。揚州刺史の僧辯の下で中従事史。侯景平定直後は憲章故事が失われていたが、奐は博識でこれを補い、儀注・牋書・表翰はみな彼の手による。陳武帝の相の時、司徒左長史・給事黄門侍郎。
  • 斉将東方老・蕭軌の侵攻の際、糧運が続かず建康令として麦飯を蓮の葉に包んで一晩で数万包を用意させ、武帝の決戦を支えた。武帝受禅後、太子中庶子。永定三年(559年)晋陵太守。晋陵は宋斉以来の大郡で歴代太守が侵掠を行う中、奐は清白を守り妻子を任地に伴わず単身赴任、俸禄は孤寡に分け与え「神君」と称された。曲阿の富人殷綺が衣氈を贈ろうとしたが「太守の禄で足りている、民が困窮する中で独り温飽を貪れない」と辞退した。
  • 陳文帝即位後、御史中丞に召され剛直で多くを弾劾し、政体に通じ奏はすべて善しとされ、滞留案件の処理を委ねられた。散騎常侍・歩兵校尉・中書舎人、再び御史中丞、五兵尚書。文帝病篤時、僕射到仲挙とともに台閣事務を裁決し、宣帝・到仲挙・吏部尚書袁樞・中書舎人劉師知らと医薬の侍従に入った。文帝が「三方鼎立の今、年長の君主が要る、晋の成帝や殷の湯王の先例に倣いたい」と諮ると、奐は涙して「皇太子は年若くとも聖徳日々進んでいる、廃立のことは臣の関知するところではない」と答え、文帝は「昔の直臣を見る思いだ」と評した。
  • 太子詹事、廃帝即位後、散騎常侍・国子祭酒、南中郎康楽侯長史・尋陽太守・行江州事。宣帝即位後、始興王長史として職務は清廉で規正に努め、宣帝は米五百斛を賜り度々慰労した。太建六年(574年)吏部尚書、八年(576年)侍中を加えられた。北辺の淮泗回復に伴う封賞の混乱の中、応接に門前市を成すほどだったが識鑑に優れ人物を的確に選び衣冠縉紳に悦服された。性は耿介で請託を絶ち、皇太子や公侯の圧力にも屈しなかった。
  • 始興王叔陵が湘州にありながら三公の位を求めた際、奐は「三公の位は徳による、皇族だからといって必ずしも与えられない」と宣帝に直言、帝は「始興がどうしてそれを望めようか、朕の子でも鄱陽王の後でなければならない」と応じた。奐は「臣もそう考えます」と答えた。後主が東宮時代、江総を太子詹事にしようとし管記陸瑜がこれを奐に伝えたが、奐は「江総には潘岳・陸機のような華麗さはあるが、蘧伯玉・於陵子仲のような実がない、輔弼の任には不適」と述べた。後主が宣帝に直訴し許可されかけたが、奐は「江総は文華の人、皇太子には既に文華の士は多い、敦重の才を選ぶべき」と奏し、王廓(都官尚書)を推薦。後主は「王泰の子は太子詹事にふさわしくない」と反対したが、奐は宋の范曄(范泰の子)が太子詹事になった先例を挙げて争った。結局帝は江総を詹事とし、これにより後主の不興を買った。
  • 後主が寵臣を優遇しようとした際も奐は従わず、左僕射陸繕の後任に奐を宣帝が起用しようと詔を草したが、後主が抑えて実現しなかった。太建十四年(582年)散騎常侍・金紫光禄大夫・前軍将軍、赴任前に弘範宮衛尉に転じ、至徳元年(583年)七十余歳で没した。文集十五巻・弾文四巻。子は紹安・紹薪・紹忠。紹忠、字は孝揚、才学あり太子洗馬・鄱陽王東曹掾。