南史卷二十六 列傳第十六 袁樞
字は践言。梁で名節を重んじ侯景の乱後は隠棲、陳に仕えて吏部尚書・尚書令を歴任した清廉な官人。
年表(3件)
- 紹泰中555年吏部尚書・呉興郡太守となる
- 陳永定中(557〜)559年侍中・掌選、都官尚書となる
- 天嘉三年562年吏部尚書・丹陽尹となる
袁樞
- 字は践言、容儀優れ沈静好学。家は富裕だったが樞は質素に暮らし公事以外は外出せず栄利に淡白だった。侯景の乱で父の病を看るため呉郡に赴き、喪に至孝で知られた。王僧辯が侯景を平定し建鄴に鎮すると衣冠の士が争って訪ねたが樞は門を閉じ静居し名声を求めなかった。
- 紹泰中(555年)吏部尚書・呉興郡太守。陳永定中(557〜559年)侍中・掌選、都官尚書。旧章に博学で通暁。陳武帝の長女永嗣公主が梁の銭蔵に嫁ぎ子の岊を生んだが夫も子も梁の代に没し、公主追封に際し尚書は蔵に駙馬都尉、岊に贈官を提案。樞は魏晋以来の駙馬都尉の由来(王姫の重みに位を合わせる制度)を論じ、公主は既に亡く伉儷の実がないため駙馬の授与は不要と論じ、杜預の例(晋の宣帝の女を娶り主が先に没した際、追贈されるも駙馬の号なし)や梁文帝の女新安穆公主の先例を引き、追贈のみで足るとした。この議が採用された。
- 天嘉三年(562年)吏部尚書・丹陽尹、父の喪により表を上げて自ら解任、喪明け後復職。僕射到仲挙とともに銓衡に関与したが人事は樞の推挙により多くが帝旨に適い、清廉で門下に人が群がらなかった。廃帝即位後、尚書左僕射、卒し諡簡懿。文集十巻。弟は憲。