南史卷二十六 列傳第十六 袁憲

字は徳章。袁君正の子で幼少から俊才として知られ、陳の忠臣として後主に最後まで仕えた人物。隋の江陵制圧後も節を守り「江表の第一人者」と称された。

年表(7件)

袁憲

  • 字は徳章、幼くして聡敏で学を好み度量があった。梁武帝が学舎五館を建てた際、その一つが憲の宅の西にあり、憲は新義を論じ同輩を驚かせた。大同八年(542年)武帝が「孔子正言章句」を撰し国学に頒布した際、憲は十四歳で正言生祭酒に選ばれた。国子祭酒到溉がその才を送り届け、周弘正は憲の父君正に「策試を試みてはどうか」と尋ね、君正は「あえて試させない」と答えたが、後日文豪を遣わし弘正の講席に参列させ、麈尾を授けられ論議を行った。謝岐・何妥も同席し、弘正は「二賢もこの若者に驚くだろう」と述べ、憲は数番の応酬で優れた弁論を示し、弘正も屈することができず、文豪に「袁呉郡(君正)に、この子はもう博士に代われると伝えよ」と語った。当時受験生は賄賂を用いたが君正は「銭で子の地位を買えない」と拒み、学官に恨まれたが憲は難問に対しても筋道立てて答え、到溉は「袁君正はよい後継ぎを得た」と評した。
  • のちに高第で挙げられ、貴公子として梁簡文帝の女南沙公主に配された。大同元年(535年)秘書郎に出仕、太子舎人に遷る。侯景の乱で呉郡に避難、父の喪に哀毀を尽くした。陳武帝の相の時、司徒戸曹に任じられ長揖の礼で挨拶したことを中書令王勱に問われ「理として拝礼すべきではない」と答え、衛尉趙知礼は「袁生の挙止は理にかない、亡き陳(汝南陳氏か)の風がある」と評した。陳受命後、中書侍郎・散騎常侍を兼ね、黄門郎王喩とともに斉に使いしたが数年抑留され、天嘉初(560年)にようやく帰国。
  • 太建三年(571年)御史中丞・羽林監に累遷。豫章王叔英の不法な馬の徴発を弾劾し免官させ、朝野の畏敬を得た。獄情が明らかでない案件を有司が強引に処理する際は帝に進言し、多く救済した。宣帝の宴で衞尉樊俊とともに山亭で終日語り合い、帝は「袁家にはやはり人物がいる」と述べた。侍中から呉郡太守に転じるはずが父任を理由に固辞し南康内史、吏部尚書。清顕の職に久しく累表して辞任を求めたが帝は「他の者は謗を受けているがお前は清白だ」と留任させた。右僕射・銓衡参掌。兄樞が左僕射のとき憲は右僕射で「大僕射・小僕射」と称され朝廷の誉れとなった。
  • 宣帝の病篤い際、吏部尚書毛喜とともに顧命を受けた。始興王叔陵の反乱に際し憲は指揮に功があった。後主が傷を負い危篤の際「我が子はまだ幼い、後事を卿に委ねる」と手を取ったが憲は「群情は聖躬の回復を望んでいる」と受諾を控えた。功により建安県伯に封、太子中庶子・侍中・太子詹事。太子元服の釈奠礼に際し辞職を願うも許されず、輔佐を二人加えられた。皇太子が典訓に従わないため憲は十カ条の切諫を手表し、太子は表面上受け入れたが心では改めなかった。
  • 後主が寵姫張貴妃の子始安王を後嗣にしようとした際、吏部尚書蔡徴が追従したのに対し憲は「皇太子は国家の儲副、億兆の心を寄せる、卿は何者か軽々しく廃立を語るのか」と厲色で叱責、その年の夏太子は呉興王に廃された。後主は憲の諫言を知り「袁徳章は真に骨鯁の臣」と称え、その日尚書僕射に任じた。
  • 禎明三年(589年)隋軍来襲、賀若弼が宮城北掖門を焼き衛兵が四散する中、朝臣は皆身を隠したが憲だけが後主の側にいた。後主は「これまでお前を誰よりも重んじてきたが、今日こそ歳寒の松柏を知る」と語り、江東の衣冠の道が尽きたことを嘆いた。後主が逃げ隠れようとすると、憲は正色で「北兵の侵入は乱暴をしない、梁武帝が侯景に対した故事に倣うべき」と諫めたが従わず退去、後主は景陽殿の井戸に身を投げ、憲は哭泣して退いた。
  • 長安に至り、隋文帝はその雅操を嘉し「江表の第一人者」と詔し開府儀同三司・昌州刺史を授けた。開皇十四年(594年)晋王広の府長史、十八年(598年)七十歳で没し大将軍・安成郡公を贈られ諡簡。長子承家は隋で秘書丞・国子司業に至った。憲の弟は敬。