南史卷二十六 列傳第十六 馬仙琕

字は霊馥。扶風郿の人。斉で豫州刺史を務め梁武帝挙兵に抵抗するも敗れて降り、以後は忠勤で武帝に重用された将。天監中は対魏戦線で活躍した。

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馬仙琕

  • 字は霊馥、扶風郿の人。父伯鸞は宋の冠軍司馬。仙琕は果敢で知られ、父の喪に哀毀を尽くし墓に松柏を植えた。斉で豫州刺史。梁武帝挙兵の際、旧知の姚仲賓が説得に来たが酒を勧めた上で軍門で斬った。族叔の懐遠が説得に来ると「大義親を滅す」と言って斬ろうとしたが懐遠が号泣して免れた。
  • 武帝が新林に至った後も江西で漕運を襲い続けたが、建康陥落後、仙琕は「我は忠を尽くすが衆寡敵せず、皆を殺されるには忍びない、我は忠臣、お前らは孝子でよい」と述べ城兵を解散させ、自ら数十の壮士と篭城。矢を放ち続け、日暮れに弓を投げ「捕らえよ、降伏はしない」と言い檻車で建康に送られたが到着後拘束を解かれ、武帝は袁昻とともに引見して「天下に二人の義士を見せよう」と語り「昔の人も主君を替えても咎めなかった」と労った。仙琕は「主を失った犬が新しい主に飼われればまた働くもの」と答え、武帝は笑って称えた。
  • 母の死に武帝は厚く弔いを給い、仙琕は弟仲艾に「大恩に報いるため心力を尽くす」と誓った。天監四年(505年)対魏戦役で常に先陣を切ったが功を語らず「大丈夫は用いられれば進んで功名を求めず、退けば罪を逃れない、それが本願」と述べた。
  • 南義陽太守として山蛮を討伐、含洭県伯に封。司州刺史・貞威将軍。魏の豫州人白早生が懸瓠を以て降ると武帝は仙琕を派遣、援軍の武会超・馬広とともに楚王城に進駐したが、魏の中山王英に懸瓠を攻められ斉苟兒は捕虜、馬広も捕らえられ洛陽に送られ、仙琕は救援できず会超らも退却、魏軍は三関を占拠、仙琕は召還され雲騎将軍。
  • 天監十年(511年)朐山の反乱平定に派遣され、魏の盧昶の十余万の大軍を撃破、豫州刺史・都督に進んだ。将として士卒と労苦を共にし質素な生活を貫き、単身敵地に潜入し情勢を偵察して多く戦功を挙げた。武帝の信任厚く、州で没し左衛将軍・諡剛を贈られた。幼名は仙婢だったが婢の字を避け玉に改めた。子の厳夫が嗣いだ。