南史卷二十四 列傳第十四 王准之

出自と生い立ち

  • 王准之、字は元魯。晋の尚書僕射彬の玄孫。曾祖は彪之(尚書令)、祖父は臨之、父は納之(ともに御史中丞)。彪之は博聞多識で朝儀に精通し、その知識は代々伝えられ、青い箱に記録を収めたことから「王氏青箱学」と呼ばれた。准之は礼学と『春秋左氏伝』に明るく文辞に富み、桓玄の簒位時には尚書祠部郎、宋の武帝の挙兵時には太尉主簿となった。山陰令として能吏の評を得、盧循討伐の功で都亭侯に封じられた。
  • 宋台建国に伴い御史中丞となり百官に恐れられた。彪之から准之まで四代にわたりこの職を継いだ。准之がかつて五言詩を作った際、范泰が「卿は弾劾しか知らないのか」とからかうと、准之は「それでもなお、代々狐(狡猾な者を弾劾すること)を務める卿よりはましだ」と切り返した。世子左衛率謝霊運が殺人を犯しながら弾劾しなかった罪で免官。
  • 武帝の受命後、黄門侍郎。永初中、上奏して「鄭玄は『礼』の注で三年の喪を27ヶ月として吉に転じるとし、これが古来の学者に広く支持されてきたが、晋初は王肃の説を用い祥禫を同月に行い25ヶ月で除喪とする制度になった。江左以来これが慣例となり、士大夫は玄(鄭玄)の説に従う者が多い。しかし先王が礼を制定したのは民心の情に順うためであり、喪の情は経典に明記されている。今、大宋が開泰の世となった今こそ、事の道理に従い玄の説に基づいて制度を統一し、朝野が一つの礼に従うべきです」と提言し、朝廷はこれに従った。
  • 元嘉中、侍中・都官尚書を歴任、吏部を兼ね、丹陽尹として出た。准之は旧儀に精通し問われれば必ず答えたという。大将軍彭城王義康が録尚書事の際、「高尚な玄虚の論など不要だ、王准之のような者が二三人いれば天下は十分に足りる」と常々嘆じたが、性格は風雅を欠き短気であったため時流には重んじられなかった。撰した儀注は広く用いられた。卒して贈太常。
  • 子の輿之は征虜主簿。輿之の子の進之は斉で給事黄門侍郎・扶風太守。梁武帝の挙兵に際し近隣郡が競って忠誠を表明する使者を送る中、進之は「これは私の志ではない」として同行を拒んだが、武帝はこれを高く評価した。梁台建国後、尚書左丞・広平天門二郡太守・左衛将軍を歴任し建寧公に封じられた。
  • 進之の子の清は散騎常侍・金紫光禄大夫・鎮東府長史・新野東陽二郡太守・安南将軍を歴任し中盧公に封じられた。承聖末年、陳の武帝が太尉王僧辯を殺害し、文帝(陳文帝)を遣わして僧辯の娘婿・杜龕を攻めた際、龕は清に危機を告げ、清は援軍を送ったが龕は大敗した。陳の文帝は呉興で追撃し晋陵まで至った。当時広州刺史欧陽頠も清と共に龕を援護していたが、途中で立場を変え清を殺して陳に帰順した。
  • 清の子は猛。

王猛(清の子)

  • 字は世雄、もとの名は勇。5歳で父の清が殺害された際、陳文帝の軍が浙江を渡って追及しようとしていたため、母の韋氏が抱いて会稽に逃れ難を免れた。成長すると学問に励み経史に通じ、孫呉の兵法にも通じた。父が非業の死を遂げたため、文帝の代を通じて音楽を聞かず蔬食布衣で喪に服す姿勢を貫いた。宣帝が即位してようやく出仕を求めた。
  • 太建初年、鄱陽王府中兵参軍から起家し、永陽王府録事参軍に累進。功名を慕い、辺境防衛・領土拡大の策を上疏し評価された。都督呉明徹の嶺外討伐に従軍し軍功により応陽県子に封じられた。累進して太子右衛率、晋陵太守に転じ、威徳兼ね備えた治政で盗賊を一掃、豪商たちは「これはみな王府君(猛)のおかげだ」と歌い、漢の趙広漢に比した。
  • 至徳初年、左驍騎将軍・散騎常侍を加えられ帝の信任篤かったが、孔範・施文慶らが結託してその剛直さを妬み、機を見て陥れようとしていた。折しも広州刺史馬靖が徴召に応じなかったため、猛は都督東衡州刺史・領始興内史に任じられ、広州刺史陳方慶とともに靖を捕らえ建鄴へ送り、公に進爵、先勝将軍・平越中郎将・大都督として広桂等20州の兵を発し嶺外の平定に成功した。
  • 禎明二年、鎮南大将軍・都督二十四州諸軍事に任じられ広州鎮守を命じられたが、赴任前に隋軍が長江を渡り、猛は所部を総督して救援に赴いた。当時広州刺史臨汝侯方慶・西衡州刺史衡陽王伯信もともに猛の督下にあったが、いずれも様子見をして動かなかった。猛は高州刺史戴智烈・清遠太守曽孝遠に命じて彼らを斬らせた。台城陥落の報を聞くと猛は喪に服し、藁を敷いて食を絶ち「申包胥(楚を救った忠臣)とはどのような人物だったか」と嘆じ、兵を率いて長江沿いを守り続けたが、後主が死んでいないことを知ると、部将辛昉を派遣して隋への帰順を申し出た。
  • 隋の文帝は大いに喜び、昉に「猛は旧主への恩義を送り届けてくれた、これは我が忠臣であり、また一方の地を保ちながら軍を煩わせなかった功臣でもある」と語り、昉を開府儀同三司とし、猛には行軍総管韋洸とともに嶺表の経略を命じた。猛の母・妻・子は先に建鄴に留め置かれていたが後主に従い都に入り、隋は宅と什物を賜って厚遇し、山越の平定を続けさせた。
  • 文帝が河東に行幸した際に猛の使者が到着し、楊素は「昔、漢武帝はこの地で戦勝の報を得て『聞喜』と改名した、今、王猛の告捷も同じく先例に符合する」と祝賀した。璽書で称賛され、長子の繕を開府儀同三司に任じた。まもなく猛は広州で卒し、文帝は哀悼し使者を送って弔祭、上開府儀同三司・帰仁県公を贈った。子の繕が爵を継ぎ普州刺史に任じられた。仁寿元年、繕の弟の続が「猛は関中への埋葬を望んでいた」と上表し許可され、使持節大将軍・宋州刺史・三州諸軍事を追贈された。諡は成。

王逡之(納之の弟瓌之の子、准之の従弟)

  • 字は宣約。若くして礼学に通じ博識であった。宋で呉令。昇明末、尚書右僕射王儉が儒術を重んじ、逡之を著作郎として尚書左丞を兼ねさせ、斉国の儀礼制定に参与させた。儉が『古今喪服集記』を撰した際、逡之が11条にわたり異論を唱え、自ら『世行』5巻を新たに撰した。国学が久しく廃れていたため、建元二年、逡之が上表して学を立てることを進言し、国子博士に転じた。著作を兼ね永明年間の起居注を編纂した。後に南康相・光禄大夫・給事中を歴任。質素な服装で几案の塵も払わず、老いても書を手放さなかった。建武二年に卒した。従弟の珪之は長水校尉として『斉職儀』を撰し、永明九年、その子で中軍参軍の顥がこの書五十巻を上奏、秘閣に収められた。

王素(彬の五世孫、逡之の族子)

  • 字は休業。曾祖は翹之(晋の光禄大夫)、その子の望之、孫の泰之はいずれも仕官せず、父の元弘は平固令。素も若くして志操があったが家貧しく母が老いていたため隠居して仕えなかった。宋の孝建・大明・泰始の各年間にたびたび徴召されたが応じず、高い評判を得た。山中には「蚿」(多足の虫)がおり、その鳴き声を聞く者は飽きないというが姿は醜いといい、素は自らこれになぞらえて「蚿賦」を作った。享年54で卒した。

史論

  • 昔、晋初、江を渡った王導が一族の運勢を占い、郭璞は「淮の流れが尽きれば王氏は滅びる」と告げたという。晋以来、王氏一族が代々冠冕の家であり続けたのは人倫の力によるものであり、単に世禄の伝統によるものではない。しかし陳の滅亡の年にちょうど淮の流れが実際に尽き、往時の人物もみな姿を消した。これは興亡の兆しがすでに前もって定まっていたことを示している。天が廃するところは、人智の謀るところではないのである。