南史卷二十四 列傳第十四 王裕之
王晏、字は休黙(?–?)。斉の武帝・明帝の重臣として権勢を振るったが、驕りを知らず内外の要職を縁故で固め帝の疑いを招き、南郊の儀に際し謀反を疑われて誅殺された。従弟の王思遠はその専断を諫めたが聞き入れられず、後に明帝から「思遠の言葉に従っていれば」と惜しまれた。
出自と生い立ち
- 王裕之、字は敬弘。晋の驃騎将軍廙の曾孫、司州刺史胡之の孫。名が宋の武帝の諱と同じであったため字で通した。父は茂之(字は興元、晋陵太守)。
- 若くして清らかな志を持ち、本国の左常侍・衛軍参軍から起家した。恬淡な性格で山水を愛し、天門太守を望んだ。赴任の途上、妻の弟である荊州刺史桓玄が招こうとしたが、敬弘は巴陵に至って「玄は姉に会いたいだけだろう、私は桓氏の贅婿にはなりたくない」と言い、別の船で妻だけを江陵に送り、自らは山郡での気ままな暮らしを楽しんだ。
- 南平太守を退官後、作唐県界に隠棲。桓玄が輔政・簒位した際にたびたび召されたが応じなかった。宋の武帝が車騎従事中郎・徐州中従事史・征西将軍道規諮議参軍に任じた。当時、府主簿の宋協も高い趣味の持ち主で、道規はこの二人を外の付き合いとして許容していた。敬弘が酒に酔って礼を失した際、外司から告発されたが道規はすぐに呼び戻し、宴を続けたという。
- 永初年間、吏部尚書に累進。召されればすぐに参内するが、用が済むとすぐ辞去して官を退くことを繰り返した。武帝はその志を咎めず尊重した。廬陵王師を授けられた際は「徳がないので師範にはなれない」と固辞し、王も強要しなかった。
- 元嘉三年、尚書僕射となったが文書は一切読まなかった。ある時、聴訟に立ち会い、上(文帝)が疑獄について問うたが敬弘は答えなかった。上が色をなして左右に「なぜ訊問記録を副僕射に渡さなかったのか」と問うと、敬弘は「記録は受け取りましたが、実はよく理解できませんでした」と答え、上は不興を示したが、それでも礼遇は変えなかった。
- 六年、尚書令に転じたが固辞し東への帰還を願い出た。上はその意志を曲げられず、侍中・特進・左光禄大夫に改め、親信30人を付けた。東帰の際、車駕は冶亭まで見送りに出た。十二年、太子少傅に召されたが都で固辞し帰った。当時上は病がちで、自ら無理をして敬弘に会いに来たという。十六年、左光禄大夫・開府儀同三司・侍中に任じられたが、また都で辞退し帰郷。二十三年、再び任命されたが再び辞退。翌年、餘杭の舍亭山にて88歳で薨じた。順帝の昇明三年、文貞公と追諡された。
- 敬弘は背が低く、座る姿勢は端正であった。桓玄はこれを「弾棊の八勢」に喩えた。居所の舍亭山は林や谷に囲まれた景勝地で、当時「王東山」と呼ばれた。
- 文帝が政治の要諦を問うた際、「天下に道あれば庶人は議論せず」と答えた。左右の女中二人に五条の弁髪と朱粉化粧をさせていたという逸話もある。娘は尚書僕射何尚之の弟・述之に嫁いだ。敬弘がその娘を訪ねた際、尚之が留守で敬弘は書斎で休んでいたが、尚之が戻ると二人の女中が門を守り「暑いので会えない」と入室を拒み、尚之は別室に移されたという。
- 上が廬陵王のために敬弘の娘を娶ろうとしたが、敬弘は「娘は既に孔淳之の子・恢之と婚約しています」と辞退した。恢之が召されて秘書郎となった際、敬弘は「秘書には定員があるので競争が生まれる、朝請には定員がないので競争がない、私は娘婿に競争のない場所に置いてやりたい」と述べて奉朝請への転任を願い、文帝もこれを許した。
- 敬弘は孫を年に一、二度しか見ず、会う日を決めても実際には会わないこともあった。子孫に学問を強いることもなく、「丹朱(堯の不肖の子)が教育不足だったわけではない、甯越(勤勉の代名詞)も鞭で打たれて学んだわけではない」と語った。恢之が新安太守となり休暇を願い出た際、面会の日を決めても実際には会わず、恢之が辞去を告げても閤の外で拝礼するのみで涙を流して去ったという逸話がある。
- 恢之は新安太守。弟の瓉之は吏部尚書・金紫光禄大夫、諡は貞。瓉之の弟の昇之は都官尚書。瓉之の子は秀之。
王秀之(瓉之の子)
- 字は伯奮。幼時、祖父敬弘にその風采を愛された。宋で太子舍人。父の死後、墓側で喪に服し、喪明け後は職に復帰。吏部尚書褚彦回が婚姻を結ぼうとしたが秀之は応じず、そのため両府の外兵参軍に留め置かれた。晋平太守として一年で辞任を願い出た理由を問われ、「この郡は肥沃で、人の欲する財産が日ごとに増える。財を求めなければ禍もない、私の資産は既に十分だ、賢路を妨げたくない」と答えた。人々は「王晋平は富を得るのを恐れて辞めた」と評した。
- 斉に仕え豫章王嶷の驃騎長史。嶷が荊州で学を興した際、秀之は儒林祭酒を兼ねた。武帝即位後、侍中祭酒・都官尚書を歴任。祖父敬弘は徐羨之・傅亮が朝政を握っても交わらず、致仕後は呉興に隠棲し、父の瓉之に静退を勧める書を送った。瓉之は五兵尚書となっても一度も権門を訪れなかった。江湛は何偃に「王瓉之は今や隠者そのものだ」と評し、柳元景・顔師伯が権勢を握っても瓉之は決して訪れなかった。秀之も尚書となって王儉と親しく交わらなかった。三代にわたり権貴に近づかない一族として評判となった。
- 侍中・領射声校尉を経て随王鎮西長史・南郡内史、輔国将軍・呉興太守を歴任。秀之は諸王の長史・行事を務めた頃から「仲祖(王球)の見識には及ばない」と嘆じ、仕進の意志を失い、舍亭山の邸宅の営繕に専念する隠棲の志を抱いていた。呉興郡に任じられると、隠棲を望んでいた地であったため喜び、山を修繕し家財を移した。隆昌元年に卒した。遺言で朱色の服を棺に入れず、祭祀は酒と乾肉のみとするよう命じ、「僕妾が声高に泣くのは喪主が誠を尽くしていないからだ、多くの泣き声で魂を乱そうとするのは笑うべきことだ」と述べた。諡は簡。子は延之。
王延之(昇之の子)
- 字は希季。物静かで人と交わらなかった。宋で司徒左長史となり、清貧で住まいが雨漏りしていたため、褚彦回が奏上し宋の明帝が材官に命じて三間の家屋を建てさせた。吏部尚書・尚書左僕射を歴任。宋の徳が衰える中、斉の高帝が輔政すると、朝野が去就を巡って揺れ動いたが、延之は尚書令王僧虔とともに中立を保った。当時の人は「二王は平生から送迎せず」と評し、高帝はこれをよしとした。
- 昇明三年、江州刺史・都督として出た。建元元年、鎮南将軍に進む。延之は金紫光禄大夫阮韜とともに宋の領軍将軍劉湛の外甥で、若い頃からともに評判があった。湛は「韜は将来第一の人物、延之はその次」と語り、延之はこれを不満に感じた。都への贈物のやり取りで韜は他の朝士と同列に扱われたが、髙武帝(斉の高帝・武帝)は延之に「韜が『卿には特別な思い入れがない』と言っているのは、劉家の月旦評(人物評価)のせいだろうか」という書を送った。
- 韜は字は長明、陳留の人、晋の金紫光禄大夫裕の玄孫。南兗州別駕として、江夏王義恭が資費を強要した際「これは朝廷の物です」と拒んだ。宋の孝武帝が侍中4人を風貌で選んだ際、王彧・謝荘が一対、韜・何偃が一対とされた。始興王師を兼ね卒した。
- 延之は身を持すること質素で清静寡欲、経歴した地では民を騒がせないことに努めた。江州では俸禄以外一切受け取らず、独り部屋にこもり出歩かなかったため吏人はめったに顔を見なかった。子弟にも気軽に近づくことを許さず、旧知の者だけには時々会って世事を語らず談笑した。後に尚書左僕射・竟陵王師を兼ね卒した。諡は簡。
王綸之(延之の子)
- 字は元章。安成王記室参軍として召集にだけ顔を出しすぐ退出する暮らしを送った。末席の官として司徒袁粲は「格式を超えた官ほど今日では貴重だ」と嘆じ、以後、栄達を望む者があえて文書を扱わない官職を貴しとする風潮がこの綸之から始まったという。
- 斉の永明中、侍中を歴任し豫章太守となる。赴任にあたり徐孺子・許子将の墓に詣で、朝堂に陳蕃・華歆・謝鯤の肖像を掲げた。政治は寛簡で良二千石と称された。武帝が琅邪城に行幸した際、綸之は光禄大夫全景文ら21人とともに参列しなかったとして有司に免官を奏上された。後に侍中・都官尚書に復し卒した。敬弘から綸之に至るまで一族はみな厳格で、面会の日を必ず定めて子孫に会う家風であった。
- 綸之の子・昕は行いに優れ、父の喪に礼を過ぎるほど尽くした。謝瀹が人を遣わそうとした際、孔珪は「これほどの人物にどうして人を遣る必要があろうか」と言ったという。昕は喪中に卒した。
王峻(秀之の子)
- 字は茂遠。若くして容姿風雅、振る舞いに優れた。斉で桂陽内史。梁の天監初年、中書侍郎。武帝はその風采を愛で、陳郡の謝覧と並んで評価された。累進して侍中・吏部尚書となり、人事の評判が高かった。物静かで競い合う心がなく、謝覧と「侍中に至ったら以後は昇進を求めない」と約束した。覧は吏部尚書から呉興郡に出た際も強権に屈しなかったが、これも俗を超えた心境ゆえであった。峻は侍中以後も官職を退いても淡々と自守し栄達を求めなかった。金紫光禄大夫に転任予定であったが拝命前に卒した。諡は恵。
- 子の琮は国子生となり、始興王の娘・繁昌主を娶ったが、学業がふるわず学友に嘲笑されたため離婚した。峻が王家に謝罪すると、王は「これは私の考えだ、気にしないでほしい」と述べたが、峻は「私の曾祖は謝仁祖(謝尚)の外孫であり、殿下との婚姻に頼らずとも我が家の門地は保たれます」と答えた。