南史卷二十三 列傳第十三 王彧
王勱、字は公斉(?–?)。容姿風雅で清廉恬淡な人柄により、梁から陳にかけて各地の太守・刺史を歴任した。嶺南では清廉な統治で知られ、陳建国後は尚書右僕射・尚書左僕射にまで至った。諡は温。
出自と生い立ち
- 王彧、字は景文。球の従子。祖父は穆(字は伯遠、司徒謐の長兄、臨海太守)、父は僧朗(宋で尚書右僕射、明帝の即位後は皇后の父として特進・贈開府儀同三司・諡元公)。彧の名は明帝の本名と同じであったため字で通した。
- 伯父の智は若くして名声高く、宋の武帝に重んじられ、「王智を見ると仲祖(王導)を思い出す」と言われた。武帝が劉穆之とともに劉毅討伐を計った際、智も同席しており、穆之が「討伐の重要事をなぜ王智に聞かせるのか」と問うと、武帝は「この人は高潔で見識が広い、そのような輩とは違う」と答えたという。智は宋の五兵尚書、建陵県五等子に封じられ贈太常。子がなかったため、僧朗は景文を智の後継とした。
- 景文は幼くして従叔の球に見出され、風姿の美しさが評判となった。謝方明は「景文は風流なだけでなく、食事の仕方さえ見ものだ」と嘆じ、ある人が謝混と比べたところ「景文と謝叔源(謝混)を比べれば、混は田舎者になってしまう」と答え、方明は「あのような人物にもう会えないとは残念だ」と惆悵した。
- 景文は理を語ることを好み、陳郡の謝荘と並び称された。文帝が群臣を連れて天泉池に臨み釣り糸を垂れて久しく獲物がなかった際、景文が「私は思うに、糸を垂れる者が清廉であるがゆえに餌に食いつかないのでしょう」と機知に富んだ言葉で答え、皆に称賛された。文帝はこれを深く気に入り、明帝の妃に景文の妹を娶らせ、明帝の名を景文の名にちなんで付けさせたという。
- 武帝の第五女・新安公主は初め太原の王景深に嫁いだが離縁し、次いで景文に嫁ぐ話が出たが病を理由に固辞し婚姻は成らなかった。建陵子の爵を襲った。
- 元凶(劉劭)の乱の際、黄門侍郎に任じられたがまだ赴任前に孝武帝の討伐が始まり、景文は密使を送って忠誠を誓ったが、父が都に留まっていたため直接身を投じることができず、事態平定後は嫌疑を受け咎められたものの、旧恩により司徒左長史などを歴任した。
- 上は散騎常侍が旧例では侍中とともに帝の顧問を務めるとして、景文と会稽の孔顗を南北の名望家として選んだ。姉の墓が開かれた不祥事で弔問できず免官となったが、後に侍中・領射声校尉・左衛将軍・給事中・太子中庶子を歴任。奉朝請の毛法とすごろくで百二十万銭を得た罪で白衣のまま職を保つ処分を受けた。景和元年、尚書右僕射。明帝即位後は左衛将軍・丹陽尹を加えられ、父の喪により辞職したが尚書左僕射・丹陽尹を再び固辞し、江州刺史・都督として出仕した。
- 喪明け後、江安県侯に封じられたがこれも固辞。後に召されて尚書左僕射・領吏部・揚州刺史・太子詹事を加えられたが朝廷に戻ることを望まず湘州を望んだが許されなかった。また景文が江州で潔白でないという噂が立った際、寵臣王道隆への書状で自ら弁明し、内授(揚州刺史)を辞退し続けた。
- 上は手詔で「尚書左僕射はすでに歴任済み、東宮詹事の地位は美職とはいえ、中書令に比する程度に過ぎない。庶姓で揚州刺史となった徐乾木・王休元・殷鉄も辞退しなかった。卿の清廉さと名望は彼らに劣らない」と、歴史的先例を引きながら景文に受諾を促す長文の詔を下した。ここでは、司徒の宰相は本来揚州刺史を兼ねるべきでないという慣例、京口の地の重要性、驃騎(宗室が務める要職)と揚州の分担関係などを述べ、辞退の余地がないことを説いた。景文はなおも詹事・領選を辞退し、中書令・常侍・僕射・揚州刺史のまま留まり、さらに中書監・太子太傅・常侍・揚州刺史を加えられた。景文が太傅を固辞すると、上は新任の尚書右僕射褚彦回を遣わして拝命させた。
- 当時、太子や諸皇子はみな幼く、上はなお身後のことを案じ、呉喜・寿寂之ら諸将は幼主を奉じきれないと見て粛清されていたが、景文は外戚として貴盛を保っていた。張永も軍歴が長く将来を危惧されていたため、上は自ら「一士親しむべからず、弓長人を射殺す」という謡を作り流布させた。「一士」は「王」(景文)を、「弓長」は「張」(張永)を暗示するもので、景文はますます恐れ、揚州辞退を願い出た。
- 詔に答えて上は「人が貴要の地位にあるかどうかは、ただ心のあり方次第だ」と述べ、大明年間の巣・徐・二戴らが執戟の地位に留まったことや、顔師伯が白衣のまま僕射として権勢を振るった例、袁粲が僕射として選挙を掌りながら誰も粲を恐れなかったのに令に転じると人々が畏怖するようになったこと、逆に君(景文)は今揚州太傅の要職にありながら朝政に関わらず、危険は少なく安泰である、と分析した長い比較論を展開した。さらに畢万が七戦して牖下で死に、蜀の費禕が座談中に刺客に斃れた例を挙げ、「危険を避けようとする心があるより、天運に任せる方がよい」「貴い者は自らを惜しむがゆえに憂いを重ね、賤しい者は自らを軽んじるがゆえに忘れやすい」と説き、吉凶は結局のところ天命によるものであり、景文の身の処し方について安心するよう諭す長文の詔を下した。また景和年間の晋平王(劉休祐か、文中「晋平庶人」)が寿陽から乱朝に帰って恐れられたが、結局は中興の運に遇った例、逆に袁顗が難を避けて襄陽に赴き人々に羨まれたが結局義嘉の乱で滅んだ例、駱宰が越王の人相を評して危険を予見し官を辞し難を逃れた例などを挙げ、安危は予測できないものだと説いた。
- 上に病があり、諸弟がすでに殺されていた中、才の劣る桂陽王休範のみが疑われず江州刺史として出されていた。上は自らの死後、皇后が臨朝すれば景文が自然に宰相となり、その一族の強盛さから純臣たり得ないことを危惧した。泰豫元年春、上の病が篤くなり、薬を送って景文に死を賜った。使者は「朕はお前に罪があるとは思わないが、私一人で死ぬわけにはいかない、先に逝ってもらいたい」と伝え、手詔にも「お前との付き合いを思い、一族を全うさせたいがゆえのこの処置である」と記されていた。
- 詔が届いた夜、景文はちょうど客と碁を打っていた。詔の箱を受け取ると碁盤の下に置いたまま平然と対局を続け、勝負を終えてから子(碁石)を奩に収め、静かに客に「詔により死を賜った」と告げ、詔を示した。酒がまだ手をつけられていないうちに、傍らにいた州の客・焦度が憤慨して酒を地に撒き「大丈夫たる者、座して死を受けるべきではない、州中の文武数百人がいれば一戦できる」と言ったが、景文は「お前の忠心はわかった。もし私を思うなら、我が一族百口のために計を尽くしてくれ」と答え、墨で詔への謝罪の返書をしたため、酒を掲げて客に「この酒は君に勧められない」と言って自ら仰いで飲み干した。享年60。追贈開府儀同三司、諡は懿。長子は絇。
王絇(彧の長子)
- 字は長素。幼くして聡明。五、六歳で『論語』を読み「周は二代に監みる」の一節に至った際、外祖父の何尚之が「『耶』を『乎』に改めれば風雅ではないか」とからかうと、絇は即座に「尊者の名を戯れの種にはできません、『草翁の風』(何尚之を暗示する語呂遊び)とでも言うべきでしょうか」と答え、舅を含め周囲を驚かせた。長じて学問に篤く、秘書丞の位にあったが、父景文より先に卒し、諡は恭。世子の位は弟の繢が継いだ。
王繢(絇の弟)
- 字は叔素。若くして秘書郎・太子舎人を経て中書舎人に転じた際、景文はこれを飛び越えた昇進とみなして受けさせず、繢は年を経てようやく景文の封(曲安侯)を受け、本来の始平県五等男の爵を襲った。元徽末、黄門郎・東陽太守。斉の武帝が撫軍吏部尚書だった張岱に長史を選ばせた際、繢の名が挙がると高帝は「これこそ真の人望というものだ」と笑って言ったという。義興太守に転じ、郡吏陳伯喜を陽羨の獄に送り処刑しようとしたが、県令孔逭が罪状不明として繢の指示に従わなかったため、繢は白衣のまま職に留まる処分を受けた。後に侍中を兼ね、武帝が雉狩りに出た際、仏法に帰依していたため病と称して従わなかった。永元元年、太常の職にあって卒した。諡は靖。
- 繢の娘は武帝の寵子・安陸王子敬に嫁ぎ、永明二年の納妃の際、外舅姑への礼を尽くすため武帝は文恵太子を繢の邸宅に同行させ、酒宴を設けさせた。公卿はみな冠冕を正して参列し、当代の栄誉とされた。
- 繢の弟は約。斉の明帝の代に数年にわたり廃錮されたが、梁の武帝の代に太子中庶子となった。武帝が「お前はいずれ富貴になるだろうから久しく屈することはない」と語り、即位後に「かつて私が予言した通り、今の富貴を得たではないか」と語ったという。侍中・左戸尚書・廷尉を歴任した。
王儁(繢の長子)
- 才知に乏しく、建安太守にとどまった。子は克。
王克(儁の子)
- 容貌美しく振る舞いも優れ、梁で司徒右長史・尚書僕射を歴任した。台城陥落後、侯景に仕えて太宰侍中録尚書事となった。侯景が敗れると迎え入れた王僧辯から「夷狄の君に仕えたことをどう思うか」と問われ答えられず、次いで璽紱の所在を問われても長く沈黙した末、「趙平原が持ち去った」とだけ答えた。(趙平原は侯景の腹心・趙思賢のことで、侯景が平原太守に任じていたためこう呼んだ。)僧辯は「王氏は百代の名門でありながら、一朝にしてこの体たらくとは」と克を責めた。後に陳に仕え尚書右僕射となった。
王藴(彧の兄の子)
- 字は彦深。父の揩は太中大夫であったが才器凡庸であったため、藴は一族から軽んじられ、常に恥辱を感じていた。貧しく広徳令となる。明帝即位後、四方で反乱が相次いだ時期、藴は将として立身しようと剣を撫でて「竜泉太阿よ、私を知る者はお前だけだ」と嘆いた。叔父の景文は「阿答(藴の幼名)、お前は我が家を滅ぼす者だ」と戒めたが、藴は「答(我が幼名)と童烏(絇の幼名)とでは貴賎が違う」と答えたという。
- 乱が平定されると吉陽男に封じられ、晋陵・義興太守を歴任したが、いずれも貪欲で放縦な統治で知られた。後に給事黄門侍郎となる。桂陽王の乱で王道隆が乱兵に殺害された際、藴は力戦して重傷を負い、御溝のほとりで助けられてようやく命を長らえた。乱平定後、撫軍長史褚澄が呉郡太守となり司徒左長史蕭恵開は朝廷で「褚澄は城を開いて賊を迎え入れながら股肱の臣とされ、王藴は甲を着て死力を尽くして戦ったのに顧みられない。これでは乱を止められない」と公言し、褚彦回は恥じて藴を湘州刺史に推挙する議を起こした。
- 斉の高帝が輔政の任に就くと、藴は沈攸之と結んで陰謀を企てたが事は露見し、秣陵の市で斬られた。
王奐(彧の兄の子)
- 字は道明。父は粋(字は景深、黄門侍郎)。奐は従祖の球の後継となったため、幼名は彦孫。数歳の頃から球に仕え深く愛された。兄弟がみな諸王国の常侍として出仕する中、奐だけは著作佐郎から起家した。琅邪の顔延之は球と親交があり、奐の背を撫でて「これでようやく寒門を脱したな」と言ったという。
- 若くして才幹に富み、叔父景文は家事を委ねた。宋では侍中・祠部尚書を歴任し吏部を掌り、昇明初年に丹陽尹に転じた。かつて王晏の父普曜が沈攸之の長史であった折、攸之の挙兵に巻き込まれ都に戻れなくなることを恐れていたが、奐が吏部の権限で普曜を内職に転じさせたため、晏は深く恩義を感じた。
- 晏が斉の武帝に仕えるようになると、奐が宋室の外戚であり従弟の藴も反逆に連座したことから帝は奐を疑ったが、晏が頭を叩いて奐に異心なきことを保証した。時に晏の父母が都にいたため人質にとる案も出たが、武帝はこれを取りやめた。
- 永明年間、尚書右僕射に累進。王儉が卒し武帝が尚書令に奐を用いようとして晏に問うたところ、晏は自身の地位が既に重いことから奐を推さず、「柳世隆に勲望があり、奐がその下に立つのは不適当でしょう」と答えたため、奐は左僕射・給事中を加えられて雍州刺史・都督として出された。
- 雍州で寧蛮長史劉興祖と不仲になり、十一年、軍主朱公恩の蛮族討伐が失敗した際、興祖がこれを上奏しようとしたため奐は激怒し興祖を投獄した。興祖は獄中で漆盆に針で文字を刻んで家族に無実を訴え上奏を求めたが、奐も先手を打って興祖が蛮族を扇動したと誣告した。上(武帝)は事の真相を見抜き、興祖を都に召還するよう命じたが、奐は自身の言動が露見することを恐れて興祖を殺してしまった。上は激怒し、中書舎人呂文顕・直閤将軍曹道剛に兵を与えて奐を捕縛させ、別に梁州刺史曹武にも江陵から襄陽へ進軍させた。
- 奐の子・彪は凶暴で当時の政治に介入し人々に憎まれていた。呂文顕らが漆匣に箜篌を隠して船に乗せ、台使(勅使)と称して奐を斬ろうとしていると偽って告げたため、彪らは城門を閉ざし命に逆らう議に傾いた。長史殷叡(奐の娘婿)は「城門を開いて服従すれば、良くて檻車で送還され官爵を失う程度で済む」と諫めたが、彪は聞き入れなかった。叡はさらに使者を送って上に直接申し開きすべきだと勧め、典籤陳道斉を出発させたが、呂文顕に捕らえられてしまった。叡は「忠は国に背かず、勇は死を逃れない。百代の名門の家柄をこのまま守るには、自ら薬を仰いで身を全うするのがよい」と諫めたが彪は従わなかった。門生の鄭羽も出城して台使を迎えるよう願ったが、奐は「私は謀反をしていない、先に上奏して申し開きするつもりだが、曹・呂ら小人が付け入る恐れがある、しばらく門を閉ざして守るだけだ」と答えた。
- 彪は出撃したが敗走。土地の人々が義兵を挙げて州の西門を攻め、彪は門で防戦してこれを退けたが、司馬黄瑶起と寧蛮長史裴叔業が城内で挙兵し奐を攻めた。奐は仏を礼拝している最中に兵が乱入し、立ち上がる間もなく斬られた。彪と弟の爽・弼、殷叡もみな誅殺された。長子で太子中庶子の融、その弟で司徒従事中郎の琛は都で棄市されたが、その他の孫たちは赦された。琛の弟の粛・秉は魏へ逃れ、のちに黄瑶起を捕らえて生きたまま食らったという。伷の娘は長沙王晃の妃であったが、男女ともに既に出継していたため連座を免れた。
- 奐が誅殺された後は、旧知の者も敢えて訪れる者がいなかったが、汝南の許明達だけはかつて奐の参軍であった縁から自ら遺体を殯葬し手厚く弔い、当時の人々にその節義を称えられた。
王份(奐の弟)
- 字は季文。宋で始安内史を務めた。誅殺された者を悼み訪れる者が誰もいない中、份だけは行って哀悼の意を表し、その名を高めた。大司農に累進。奐の誅殺後、その子の粛が魏に逃れると、份は自ら拘束されて罪を待ったが、斉の武帝は許した。粛はたびたび魏軍を国境まで引き連れてきたが、份は侍座の折、武帝に「近頃北からの便りは」と問われ、「粛はすでに祖先の墓所を忘れた者ですが、遠くにあっても臣が仕えていることを思い出してほしいものです」と真摯に答え、帝はこれをもって份を信頼し続けた。
- 後に秘書監となり、梁では散騎常侍・領歩兵校尉・兼起部尚書を歴任した。武帝が宴席で群臣に「朕は有か無か」と問うた際、份は「陛下は万物に応じては有形であり、至理においては無形です」と答え、帝はこれを称賛した。累進して尚書左僕射、侍中・特進・左光禄大夫・監丹陽尹を歴任し卒した。諡は胡。長子は琳。
王琳(份の長子)
- 字は孝璋。司徒左長史。斉の代に梁の武帝の妹・義興長公主を娶り、9人の子をもうけ、いずれも名を知られた。長子は銓。
王銓(琳の長子)
- 字は公衡。容姿風雅で立ち居振る舞いに優れ、武帝の娘・永嘉公主を娶り駙馬都尉となった。学問では弟の錫に及ばなかったが孝行では並び称され、時人は「銓と錫の二王は玉昆金友と言うべきだ」と評した。母の長公主が病んだ際、銓は憔悴して人相が変わるほど看病し、喪に服して常に哭泣したことから気疾を患った。侍中・丹陽尹を経て衛尉卿の任にあって卒した。子の溥は字は伯淮、簡文帝の娘・餘姚公主を娶った。
王錫(銓の弟)
- 字は公嘏。幼くして聡明、兄弟とともに学んだが、休暇にも独り留まって学業に励み、努力のあまり右目を痛めた。十三歳で国子生となり、十四歳で「清茂」に推挙され秘書郎、再遷して太子洗馬。当時まだ幼かった昭明太子のため、武帝は錫と秘書郎張纉に宮中への出入りを日数無制限で許し、太子と親しく交わらせ師友のような関係を築かせた。また陸倕・張率・謝挙・王規・王筠・劉孝綽・到洽・張緬とともに十人の学士に選ばれ、当代随一の顔ぶれとされた。錫は外戚として永安侯に封じられた。
- 普通初年、魏との国交が始まり、魏の使者劉善明が来聘した。中書舎人朱异が接待にあたったが、善明が「南朝の学者で朱异殿に匹敵する者は何人いるか」と挑発すると、异は「私はもっぱら職務上の理由でここにいるだけで、才弁を競うなら私には務まらない」と答えて逃げた。善明が「王錫・張纉の名は北でも聞いている、会いたいものだ」と言ったため、异はこれを上奏し、南苑で宴を設けて錫・張纉・异の四人だけで応対させた。善明は経史を縦横に論じ、時に冗談も交えて挑んだが、錫と纉は臨機応変に答え、善明を大いに感嘆させた。後日、善明は异に「今日二人の賢者に会えたのは期待通りだった、君子がいなければ国の面目は保てない」と語ったという。宴の間、皇帝は徐僧権に命じて発言の一言一句を書き留めさせた。
- 累進して吏部郎中となったが、二十四歳の時、親友に「私は外戚の身で誤って知遇を得ているに過ぎない、加えて病弱で公務に堪えない、自分の好むところを捨てて不得手なことに従うわけにいかない」と語り、病と称して拝命せず、召使いを解雇し賓客を絶ち、門を閉ざして思索にふけった。屋敷は寂として、子供たちも簾越しにしか温清の礼を尽くせなかったため、公主(母)は壁に穴を開けさせて子の渉・湜の様子を窺ったという。享年三十六で卒し、贈侍中、諡は貞。
王僉(錫の弟)
- 字は公会。八歳で父の喪に遭い、哀毀すること礼を超えた。国子生の首席に補せられ、祭酒袁昻に「通理」と称された。累進して始興内史となったが、生母の喪により固辞して拝せず、また南康内史に任じられた際も郡内で義興主(公主)が薨じたため詔により喪を服したまま起復した。後に太子中庶子・東宮管記を掌り卒した。贈侍中。元帝の詔は「賢にして誇らず」として諡を恭とした。
王通(僉の弟)
- 字は公達。梁で黄門侍郎を務め、敬帝の承制下で尚書右僕射に任じられた。陳の武帝の受禅後は右僕射に転じ、太建元年に左光禄大夫、六年に特進・侍中・将軍を加えられたが、拝命前に卒した。諡は成。
王勱(通の弟)
- 字は公斉。容姿風雅で博識、清廉恬淡で利欲に淡白であった。梁で輕車河東王功曹史を務め、王が京口に鎮する際に随行しようとしたところ、選挙を司っていた范陽の張纉が「王生のような才器が府外の官にとどまるべきではない」と評し、太子洗馬に推挙した。後に南徐州別駕従事史となり、大同末年、梁武帝が園陵に謁する道中で朱方を通過した際、勱は迎えの列に加わり、輦の傍らでの帝の質問すべてに的確に答え、また北顧楼に登って詩を賦し、その文辞の清らかさを帝に賞された。
- 河東王が広州刺史となった際、勱は冠軍河東王長史・南海太守として随行。王が嶺南で侵掠を行うことを恐れて仮病を使い州に戻ったため、勱が州府の事を代行した。越の地は豊かで歴代の太守がみな貪欲に振る舞ったが、勱だけは清廉で知られた。
- 給事黄門侍郎に召還後、侯景の乱で江陵に逃れ、晋陵太守を歴任。飢饉と兵乱の後で郡が疲弊していたが、勱は清簡な政治で民を安んじた。侍中に召され、五兵尚書に転じた際、魏軍が至ったため元帝は湘州刺史宜豊侯蕭循の湘州入りを支援させるべく勱を監湘州とした。魏が江陵を平定すると、敬帝の承制下で中書令・侍中を加えられ、陳の武帝の代には司空丞相長史・侍中・中書令を歴任した。
- 蕭勃が平定された後、広州刺史に任じられたが赴任前に衡州刺史に改められた。王琳が上流を占拠し衡州・広州が動揺していたため赴任できず、大庾嶺に留まった。太建元年、尚書右僕射に累進。東方一帯が大水害に見舞われた際、晋陵太守として威徳ある統治を行い、郡人は上表して頌徳碑を建てることを願い許された。中書監に召還され、重ねて尚書左僕射・領右軍将軍を授けられて卒した。諡は温。
王質(勱の弟)
- 字は子貞。若くして意気盛んで書史に通じた。梁武帝の甥として甲口亭侯に封じられ、太子中舎人・庶子を歴任。侯景が長江を渡った際、質は歩騎を率いて宣陽門外に布陣したが、景の軍が都に至ると戦わずして潰走し、僧に扮して民間に潜んだ。台城陥落後は西の荆州に逃れ、元帝の承制下で侍中・呉州刺史・領鄱陽内史を歴任した。
- 魏が荆州を平定した後、侯瑱が盆城に鎮していたが質と不和になり、質は所部を率いて留異のもとに身を寄せた。陳の永定二年、武帝の命で所部を率い都督周文育に従って王琳を討伐したが、質は琳と親交があったため、軍中で内通しているとの讒言を受け、武帝は文育に質の殺害を命じたが、文育は上奏して救命を求め、質は死を免れた。文帝(陳文帝)の即位後、五兵尚書となり、宣帝の輔政期には司徒左長史となったが、賭博打ちを招集した罪で免官、後に都官尚書となり卒した。諡は安。
王固(質の弟)
- 字は子堅。若くして清廉で文史に通じた。梁で武帝の甥として莫口亭侯に封じられ、丹陽尹丞。梁の元帝の承制下で相国戸曹属・掌管記となり、魏へ使者として赴いた際、梁の外戚として厚遇された。承聖元年、太子中庶子・尋陽太守に転じた。
- 魏が荆州を落とした際、固は鄱陽におり、兄の質とともに東嶺を越えて信安県に居を移した。陳の永定年間、呉郡に移住。文帝は固の清廉な人柄を評価し、婚姻によって縁を結ぼうとした。天嘉年間、中書令・散騎常侍・国子祭酒を歴任し、娘を皇太子妃とした。礼遇篤く、廃帝の即位後は侍中・金紫光禄大夫を授けられた。
- 宣帝の輔政期、固は廃帝の外戚として乳母らと宮中を頻繁に往来し、機密事項が漏れ出たことで一味がみな誅殺された。宣帝は固がもともと兵権を持たず、また清廉な暮らしぶりであったことから、官職を止め禁錮に処するに留めた。太建年間、太常卿の任にあって卒した。諡は恭。
- 固は無欲恬淡で喪に篤く、仏法を深く信じた。生母の喪では終生蔬食を貫き、夜は坐禅、昼は読経に努めた。かつて魏への使いで宴に招かれた際、羊の屠殺を止めるよう請い、羊が固の前で跪拝したという逸話がある。また昆明池での宴で、魏の人々が南人が魚を好むだろうと大きな網を仕掛けた際、固が仏法により呪すると一匹の魚も獲れなかったという。子の寛は侍中。
史論
- 王誕は早くから名声があり、危難の間を巧みに立ち回って栄達をつかんだが、これも時運によるところが大きい。
- 奉光(王瑩)・奉叔(王亮)はともに斉と梁の交代を無事に生き延びたが、亮が自ら「寒松」(清節を保つ者)と称したことこそ真に優れた行いであった。瑩の印章が六度も壊れたのは、あるいは鬼神が満を戒めたものか。
- 景文(王彧)は若くして名声を得、栄貴は権勢によって得たものではなかった。もし泰始の時代に自身が外戚でなく、袁粲ら群公と並んで進退を共にしていたなら、あの傾覆の災いはおそらく免れられただろう。庾元規(庾亮)が中書令を辞退したのも、まさにこの理に適う判断であった。
- 奐には愚かな子があり自ら誅滅を招いたが、份の子孫は代々栄え、その家運の美しさは特筆に値する。