南史卷二十三 列傳第十三 王華

王琨(?–?、享年84)。庶出の出自ながら従兄王華に引き立てられ官途に就いた。広州刺史として汚職の温床とされた任地を清廉に治め、順帝譲位の際には輿にすがって号泣するなど旧主への忠節を示した人物。

年表(1件)

出自と生い立ち

  • 王華、字は子陵。誕の従祖弟。祖父は薈(衛将軍、会稽内史)、父は廞(司徒右長史)。
  • 晋の安帝隆安初、王恭が王国宝討伐の兵を挙げた際、廞は母の喪に服していたが恭の檄に応じて挙兵。女を貞烈将軍として官職につけた。王国宝の死後、恭が廞に罷兵を命じたが、廞は挙兵の際に多くの人を殺していたため、以後止められず、恭討伐を名目に兵を続けた。恭は劉牢之を遣わして廞を破り、廞は敗走して行方不明となった。長子の泰は恭に殺された。
  • 華は当時13歳で軍中にあり、廞とはぐれて僧曇冰に付き従い逃げた。津の役人に怪しまれた際、曇冰が「奴め、なぜ怠けている」と罵り杖で数十打ったため疑いが晴れ、免れることができた。恩赦を受けて呉に戻ったが、父の生死が分からぬまま布衣蔬食で十余年を隠棲した。
  • 宋の武帝はその才を用いようとし、廞の死を正式に発表させ喪に服させた上で出仕させた。喪明け後、武帝の長安北伐に従い北徐州刺史の主簿、後に別駕として頭角を現した。
  • 文帝が江陵鎮守の際、西中郎主簿・諮議参軍となった。文帝がまだ政務に親しんでいなかった頃、実務は司馬張邵に委ねられていた。華は人に先を越されることを好まず、邵の派手な行列に対し牽車一両で従者二三人という質素さで対抗した。ある時、邵の行列と出くわした華はわざと知らぬふりをして「これほどの威儀は殿下(文帝)に違いない」と言い、牽車を止めて道端に立ったが、邵本人と分かって驚いたという。後に邵が白服のまま城に登った不敬を華が弾劾し、邵は罷免された。華が後任の司馬となった。
  • 文帝が少帝殺害の後、迎えられて帝位に就くことを躊躇していた際、華は「先帝(武帝)は天下に大功があり、四海はなお心服している。継嗣が不徳であっても人望はいまだ改まっていない。徐羨之は凡才の寒門、傅亮は布衣の書生に過ぎず、晋の宣帝や王敦のような野心があるわけではない。廬陵王の厳しい処断を恐れて先を越して迎えたに過ぎない。殿下の寛大な人柄は既に知られており、順序を越えて迎え入れられたとて、その徳を人々は理解するはずだ。羨之・亮・謝晦らも檀道済・王弘を含め五人の功が並び立ち、互いに譲り合うことはあり得ない。今すぐ召しに応じても万に一つの危険もない」と説き、文帝はこれに従った。文帝は「お前は私にとっての宋昌(漢の文帝を迎えた功臣)になろうとするのか」と言い、華を留めて後事を総覧させた。文帝即位後、華は侍中・右衛将軍となった。
  • これより先、会稽の孔甯子は文帝の鎮西諮議参軍として文才を認められており、この時黄門侍郎・領歩兵校尉となった。甯子は以前、何無忌の安成国侍郎だった頃、東に戻って屋敷を建てる際に門を高くしたことを郷里に笑われたが、「大丈夫たる者、常識にとらわれる必要はない」と答えたという。甯子と華はともに富貴の志を抱いており、徐羨之らはこれを警戒して文帝に讒言した。甯子が東に帰る途中、金昌亭で船を泊めようとした際、「ここは殺君亭(君主を殺す亭)という不吉な名の場所だ、泊まってはならない」と拒んだという逸話がある。華は閑居のたびに王粲の「登楼賦」の「王道の一平を冀い、高衢を仮りて力を騁せん」の一節をよく詠じ、出仕にあたっては羨之らに睨まれつつも「太平の時を見るのだ」と嘆じたという。
  • 元嘉二年、甯子が卒し、三年、羨之らが誅殺されると、華は護軍将軍・侍中に転じた。宋代を通じて、華と南陽の劉湛だけは媚びへつらって官を求めることをせず、そのまま任命されることが常であった。華はこの点で他人と異なる自負を持ち、生涯宴席に酒を口にしなかったが、招かれれば出席し、議論すべき事があれば車で先方に赴いたという。
  • 王弘が輔政の任にあり、その弟の曇首も文帝に重用され華と並ぶほどであったため、華は自らの力が十分に発揮されていないと感じ、「宰相が一時に数人もいては天下は安んじられない」と嘆いた。元嘉四年、43歳で卒した。九年、羨之誅殺の功により新建県侯を追封され、諡は宣。孝武帝の即位後、文帝廟庭に配享された。子の定は爵を嗣いだが卒し、子の長が嗣いだが母を罵ったため爵を奪われ、弟の佟が継いだ。斉が受禅すると爵位は除かれた。

王琨(華の従父弟)

  • 父の懌は知的障害があり(「不辨菽麦」)、婚姻を望む家がなかったため、獵婢を側室として琨を儲けた。当初の名は崐崙。懌が後に南陽の楽玄の娘を娶ったが子がなかったため、正式に琨を嗣子とした。
  • 琨は謹直な性格で、従伯の司徒謐に愛された。宋の武帝がまだ桓脩の参軍だった頃、脩は武帝を厚遇していた。後に武帝は脩を除く計画を立てながらも旧恩を思い、王華に依頼して脩の二人の娘の嫁ぎ先を探させた。琨は姉を娶り、妹は頴川の庾敬度に嫁いだ。これも名家であった。
  • 琨は郎中・駙馬都尉・奉朝請を歴任した。伯父の廞が晋末に罪を得た際、一族の子弟はみな誅殺されたが、華だけは免れた。華は後に宋で栄達した後、家運が衰えた琨を実の兄弟のように引き立て、宣城・義熙太守などを歴任させて廉潔と評された。華の没後は宋の文帝の庇護を受け、孝建年間には吏部郎として、多くの権門の依頼にもかかわらず公平な人事を行った。江夏王義恭が二人の門生の登用を頼んだ際、一度は応じたが二度目は断り、琨は平越中郎将・広州刺史に左遷された。
  • 広州は物資豊かで、当時「広州刺史は城門を一つ通るだけで三千万銭を得る」と言われるほど汚職の温床だったが、琨は一切私財を蓄えず、俸禄の半分を朝廷に献上した。かつて鎮の恒例だった鼓吹の楽も自ら辞退した。
  • 任期満了で戻った際、孝武帝が清廉さを問うと、琨は「私は邸宅を百三十万銭で買いました」と正直に答え、帝はその答えに感心した。後に歴陽内史となり、忠実さを買われて寵児の新安王の北中郎長史に転じ、度支尚書・光禄大夫を歴任した。
  • 従兄の華の孫・長が新建県侯の爵を襲ったが酒に溺れて品行が悪く、琨は上表して長の弟の佟に爵を継がせるよう求めた。
  • 呉郡太守を経て中領軍となった際、郡在任中に朝廷の三十六万銭を諸王への贈答や絳襖の製作に流用したことで光禄大夫に左遷されたが、後に太常・金紫光禄大夫・散騎常侍・廷尉を加えられた。廷尉虞龢が社稷の祭祀に一神とすべきと提案した際、琨は旧例に基づいてこれに反駁し押し通した。当時、虞龢が寵愛されていたため朝廷は琨の強直さを称賛した。
  • 明帝の臨終に際し会稽太守・都督となったが、誤りにより冠軍に降格。順帝即位後、右光禄大夫に進んだ。順帝が皇位を退く際、百官が居並ぶ中、琨は輿の獺尾を握って号泣し「人は長寿を喜びとするが、老臣にとっては長寿こそ悲しみ。螻蟻のように先に死ねなかったばかりに、こうした事態を目にすることになった」と言い、百官もみな涙を流したという。
  • 斉の高帝即位後、武陵王師・侍中を兼ねた。王儉が宰相だった時、東海郡の迎吏の任用を頼んできたが、琨は「三台五省はみな貴殿の思うままに人を用いているのに、地方の小郡くらい寒門の者に譲ってはどうか」と突っぱねた。高帝が崩じた際、琨は牛が近くになかったため数里を徒歩で参内した。人々は「車を待てばよかったのに」と言ったが、琨は「今日の駆けつけには自ら赴くのが当然だ」と答え、まもなく病を得て卒した。享年84、贈左光禄大夫。
  • 琨は謙虚で謹直、老いてもその姿勢を崩さず、朝会の際には早起きして衣服を何度も確認した。大明年間、尚書僕射顔師伯が豪奢な宴で女楽を招いた際、琨も度支尚書として招かれたが、男女の別を重んじて酒や炙り肉を渡す妓女を避け、笑いものになった。師伯が再度宴に誘っても琨は応じなかった。
  • 中領軍劉勔が晩年に東陽郡への転任を望んだ際、袁粲以下が称賛する中、琨だけは「永初・景平の頃の謝晦・殷景仁、元嘉の到彦之にも及ばない」と評し、劉勔が侍中を加えられた程度で不満を持ち東陽を求めるのは軽率だと批判した。
  • 質素倹約で知られ、酒は二杯までとし、塩豉や生姜蒜の類は屏風にかけて保管し、酒や漿は牀下に置いて自ら分け与えた。景和年間、義陽王昶討伐の軍事動員に際し新たな旗指物を用意しようとした部下に対し、「元嘉初年の謝晦討伐の時の物が箱に残っているはずだ」と言い、実際に見つかったという。
  • 父の名(懌)・母の名(恭心)に含まれる文字を過度に避けたため、当時「矯枉過正」(正しさを求めるあまり行き過ぎ)と評された。