南史卷二十三 列傳第十三 王誕
王亮、字は奉叔(?–?)。斉末から梁にかけて仕え、東昏侯誅殺後は動かず、梁武帝に「支えられなかった宰相に用があるか」と詰られた人物。梁で尚書令に至るが朝賀欠席により爵を削られ庶人となり、のち復帰して卒した。
出自と生い立ち
- 王誕、字は茂世。太保王𢎞の従祖兄にあたる。祖父は恬(晋の中軍将軍)、父は混(太常卿)。
- 若くして文才があった。晋の孝武帝が崩じた際、叔父の尚書令王珣が哀策を作ることになり下書きを誕に示したところ、「季節の描写が足りない」と言われ、誕が筆を執って秋冬の情景を書き足すと評判になった。
- 雉郷侯の爵位を襲い、会稽王世子元顕の後軍長史・琅邪内史となる。元顕の寵臣張法順に取り入って寵愛を受け、元顕が妾を娶る際には親迎の使いを務めた。
- 元顕が桓玄討伐に際して桓氏一族を皆殺しにしようとした時、誕は甥にあたる桓脩らを救い助命させた。
- 桓玄が実権を握り脩を誅殺しようとした際にも誕が弁護し、脩は広州へ左遷されるにとどまった。
- 盧循が広州を占拠すると、誕はその平南府長史として厚遇された。誕は北へ帰りたいと願い、盧循に「劉鎮軍(劉裕)とは情誼が深いので、北へ帰れば必ず重用される」と説き、当時循に抑留されていた広州刺史呉隠之とともに帰還を許された。
- 宋の武帝(劉裕)の太尉長史となり、忠誠を尽くして厚く信任された。盧循が蔡洲から南へ敗走した際、劉毅が追討を強く求めたが、誕は武帝に密かに「広固を平定し盧循も滅ぼせば功は並ぶ者なし。この大功を他人と分ける必要はない。劉毅は公と共に挙兵した仲間で、今や敗残の身、これ以上功を立てさせるべきではない」と進言し、武帝はこれを容れた。
- のち呉国内史となるが母の喪で辞職。武帝が劉毅を討つにあたり輔国将軍として起用され、誕は喪服のまま従軍した。当時、諸葛長人が太尉留府事を代行しており内心不安を抱いていたため、武帝もこれを憂慮していた。劉毅平定後、誕が先に帰還を願い出ると、武帝は「長人は疑心を抱いているようだが、お前が先に去ってよいのか」と問うた。誕は「長人は私が公の厚遇を受けていることを知っているので、単身軽装で帰れば無事だと安心するはずです」と答え、武帝は「お前の勇気は孟賁・夏育にも勝る」と笑って許した。誕は先に帰還した。
- 誕はのちに没し、作唐県五等侯を追封された。子の詡は早世。
- 誕の兄の嘏(字偉世、侍中左戸尚書、始興公)の子が偃である。
王偃――出自と栄辱
- 偃、字は子游。母は晋の孝武帝の娘・鄱陽公主。宋の受禅後、永成君に封じられた。
- 偃は宋の武帝の第二女・呉興長公主(諱榮男)を娶った。公主は夫を辱め、雪の夜に庭の樹に裸で縛り付け凍えさせたが、偃の兄の恢が閣を叩いて公主を詰り、ようやく免れた。
- 偃は謙虚で慎み深く、世事に頓着しなかった。位は右光禄大夫、贈開府儀同三司、諡は恭公。
王藻(偃の長子)
- 位は東陽太守。文帝の第六女・臨川長公主(諱英媛)を娶った。公主は嫉妬深く、藻が近習の呉崇祖を寵愛したことを恨み、景和年間に廃帝へ讒言し、藻は下獄して死んだ。公主は王氏と離婚した。
- 宋代の諸公主は総じて嫉妬深く、明帝はこれを常々憎んでいた。湖熟令袁慆の妻は嫉妬を理由に賜死させられ、明帝は近臣虞通之に命じて『妬婦記』を編ませたという逸話がある。
- 左光禄大夫江湛の孫・褚曖(もと江斅)が孝武帝の娘と婚約した際、上(皇帝)は褚曖に代わって婚姻辞退の上表文を作らせた。その文は、家柄卑しい者が公主に降嫁を受けることの恐懼を述べ、王敦・桓温・王献之(子敬)・王偃・何瑀・謝荘・殷沖ら歴代の駙馬が公主の家で受けた抑圧――出入りの制限、賓客との交際断絶、召使いによる監視、酒食の詰問、外泊の許否をめぐる疑い、夫婦間の隔絶など――を具体的に列挙し、婚姻の免除を切に願う内容であった。帝はこの上表文を諸公主に示して戒めとし、また戯れの種ともした。
- 元徽年間、臨川主(公主)は自ら望んで王氏一族のもとに戻り、幼い後継ぎを守り育てたいと申し出て許された。
- 藻の弟は懋。
王懋(藻の弟)
- 字は昌業。光禄大夫、南郷侯に封じられた。子は瑩。
王瑩(懋の子)
- 字は奉光。宋の臨淮公主を娶り駙馬都尉を拝命。義興太守を歴任し、謝超宗の後任となったが、超宗が瑩と不仲になり都に戻って懋のもとで書状の取次を求めた際、瑩の取次が事務的だったことから「湯を雪に注ぐ」(無駄だ)と揶揄する言葉の応酬があり、双方が恥をかく騒動となった。懋は瑩が自分への奉養を怠っていると朝廷に訴え、瑩は郡を失い廃棄処分となった。
- 後に侍中・東陽太守を歴任し善政で知られ、呉興太守に転じた。斉の明帝の治世下、二郡を歴任してともに能吏の評を得、中領軍に復帰。永元初年、政治が佞臣らの手に握られる中、瑩は職を守るのみで是非を論じなかった。尚書令徐孝嗣が誅殺されると、瑩は朝政に関与を強め、孝嗣の邸宅と、孝嗣が持っていた枝江県侯の封号を自分のものにするよう上奏した。従弟の亮は「これは立派なこととは言えない」と諫めたが、瑩は「私は昔、呉興太守として裸一貫で赴任した。徐(孝嗣)は宰相でありながら私を重用せず、領軍長史に留め置いた。今その邸宅に住むことに何の恥があろうか」と怒った。当時の人々はこれを不徳と評した。
- 崔恵景が京口から江夏王を奉じて反乱を起こした際、瑩は湖頭でこれを防いだが敗れ、水に飛び込んで小舟で台城に逃げ帰った。恵景の乱が平定されると邸宅は徐氏に返還した。梁の武帝の代には相国左長史となり、即位後は建城県公に封じられ、累進して尚書令となった。清廉謹直で帝に厚く信任され、猛獣が都に入った際、群臣が答えられない中で瑩だけが「昔、舜が石を撃つと百獣が舞ったといいます。陛下が天命を受けられたからこそ虎や象が現れたのです」と答え、帝を大いに喜ばせた逸話がある。
- 天監十五年、左光禄大夫・開府儀同三司・丹陽尹に累進した。官印の鋳造で亀鈕が六度も壊れ、七度目にようやく成った。丹陽尹に就いて六日で急病にかかり薨じた。諡は静恭。子の実が跡を継いだ。
王実(瑩の少子)
- 秘書郎から起家し、梁の武帝の娘・安吉公主を娶り、建城県公を襲爵、新安太守となった。従兄が郡を訪ねて金を無心した際、実は五十万銭を貸したが、その従兄は密かに郡内で商いに使って利を得ようとしたため、実は道中でこれを知って追いつき、杖罰を加えたが最終的には許した。
- 後に湘州長史となった際、長沙郡王が儀礼の場に威儀を正して臨んだのに対し、実は身なりが乱れたまま現れて王の不興を買ったが、機転を利かせて事なきを得た。
王亮(瑩の従父弟)
- 亮、字は奉叔。父は攸(字は昌達、宋で太宰中郎、贈給事黄門侍郎)。名家の子として宋末に公主を娶り駙馬都尉となる。秘書丞を経て、斉の竟陵王子良が開いた西邸に召され、当代の俊才の一人として肖像を描かれた。
- 晋陵太守として清廉な善政で知られた。晋陵令沈㠝之が亮の父の諱(攸)を犯したため代官とされたが、㠝之はこれを恨み「攸の字はどう書けばよいのか」と皮肉な言葉遊びで亮を困らせ、亮は逃げ出す羽目になったという逸話がある。
- 建武末年、吏部尚書に累進。当時、右僕射江祏が朝政を握り人事を専断していたが、亮は選部の長として意見を異にすることが多かった。かつて亮が吏部郎でなかった頃は祏の帝の内弟という立場ゆえに深く交わっていたが、後に疎遠になった。江祏が誅殺されると佞臣らが専横し、亮は止めることができず、ただ資格・序列にのみ従って人事を行ったため、当時は有能とは見なされなかった。
- 東昏侯の暴政の下では容れられて難を免れた。梁武帝の軍が新林に至った際、内外の百官がこぞって迎えに行ったり間道で忠誠の意を伝えたりする中、亮だけは使いを送らなかった。東昏侯が張稷に殺害された後、亮らは太極殿前の西鐘の下に集まり、斉の湘東嗣王宝晊を立てようと相談した。瑩(王瑩)は「城が閉ざされて久しく人心も離れている。征東(梁武帝)が近くにいるのに、なぜ張稷に問わないのか」と述べ、また「桀に昏徳あり鼎は殷に遷った。今まさに微子が殷を去り、項伯が漢に帰した時である」と言った。亮は黙したままだったが、朝士たちが次々に立ち去るのを見て、ついに国子博士范雲を遣わし、東昏侯の首を石頭城に送り、自身が使者団の首座となった。
- 城が平定され朝士がみな出迎える中、亮だけは遅れて裾を乱したまま梁武帝に謁見した。帝は「(国が)傾いても支えなかった者に、宰相としての用が何であろうか」と詰った。亮は「もし支えることができたなら、そもそも公の今日の挙兵はなかったはずです」と答え、泣きながら退出した。
- 覇府開府に伴い大司馬長史となり、梁台建設に際し侍中・尚書令を授けられたが固辞し、侍中・中書監兼尚書令となった。受禅後は侍中・尚書令・中軍将軍・豫寧県公に進んだ。天監二年、元日の朝賀に病と称して欠席したが、別室で宴会を開き平然としていたため、御史中丞楽藹が「大不敬」と弾劾、爵を削られ庶人とされた。
- 天監四年、帝が華光殿で直言を求めた際、尚書左丞范縝が「司徒謝朏は虚名だけの人物なのに陛下は重用し、前尚書令王亮は政治的手腕がありながら見捨てられている」と述べたところ、帝は色をなし、御史中丞任昉が范縝を弾劾して免官とした。亮は屏居して賓客を謝絶し、母の喪では礼を尽くした。後に中書監・散騎常侍に復帰し、卒した。諡は煬。