南史卷二十二 列傳第十二 王筠

王筠、字は元礼、一字は徳柔(?–?)。沈約に絶賛された文才の持ち主で、昭明太子の東宮文学サークルの一員として重んじられた。多くの著作・文集を残したが、晩年は侯景の乱で邸宅を失い、盗賊に襲われ井戸に落ちて六十九歳で没した。

年表(4件)

文才と詩業

  • 筠、字は元礼、一字は徳柔。幼くして聡悟で七歳で文をよくし、十六歳で「芍薬賦」を作りその辞は非常に美しかった。成長すると清静で学を好み、従兄の泰と斉名した。沈約は筠を見て「外祖父(王僧達か)に似ている」と評し、袁粲は僕射の張稷に「王郎はただ額が私(袁公)に似ているだけでなく風韻もよく似ている」と語ると、稷は「袁公は人を見ると厳しくなるが、王郎は人を見ると必ず笑う、この一点だけは似ていない」と応じた。尚書殿中郎に任じられた際、王氏で渡江以来この職に就いた者はなく、周囲は就任を勧めなかったが、筠は「陸平原(陸機)は東南の秀才、王文度(王坦之)は江東で独歩した、私が昔の人に肩を並べられるなら何を恨むことがあろうか」と述べて喜んで職に就いた。沈約は筠の文を見るたびに嘆賞し「昔、蔡伯喈(蔡邕)が王仲宣(王粲)を見て『王公の孫よ、わが家の書籍はすべて君に譲ろう』と言った故事に倣い、私も不敏ながらこの言葉に付き従いたい。謝朓ら諸賢が世を去ってから、平生の意好はほぼ絶えていたが、老いてまた君に出会うとは思わなかった」と語った。約が郊居の宅の閣斎で筠に「草木十詠」を作らせその壁に書かせたが、筠はそのまま文辞を直接壁に書き題を加えなかった。約は「この詩は物を指して形を示す、題署の必要はない」と評した。約が「郊居賦」を構想し長く未完のまま筠に草稿を示すと、筠は「雌霓(虹の一種、五的反)連蜷」の句に至り、約は手を打って喜び「私は常に人から『霓(五兮反)』と呼ばれることを恐れていた」と語った。「墜石磓星」「冰懸埳而帶坻」の句に至っても筠は節を打って称賛し、約は「知音の者は稀であり、真の鑑賞はほとんど絶えている、それゆえ君を要(もと)めるのはこの数句にこそある」と語った。筠がまた詩を作って約に呈すると、約は返書で嘆詠し後進中随一と称えた。筠はまた強韻を用いることに長け、公宴のたびに作る辞は必ず妍麗であった。約はかつて上に「近頃の名家に筠より優れる者はいない」と上言し、また御筵で王志に「賢弟(筠)の文章の美は後来第一と言うべきだ」と語った。謝朓もかつて「良い詩は円満で流麗、弾丸のように転がる」と評していたが、筠の数首を見て初めてこの言葉の真実を知ったという。
  • 太子洗馬・中舎人を歴任し東宮の管記を掌り、昭明太子は文学の士を愛し、常に筠と劉孝綽・陸倕・到洽・殷鈞らと玄圃に遊宴した。太子は筠の袖を執り孝綽の肩を撫でて「いわゆる左に浮丘の袖を把り、右に洪崖の肩を拍つ、というのはこのことだ」と語り、その重んじられ方はこの通りであった。筠はまた殷鈞とともに方雅で礼遇された。後に中書郎となり勅を奉じて開善寺の宝誌法師の碑文を製作し辞は麗しく逸れたものであった。また勅で「中書表奏」三十巻を撰し、自作の賦頌をまとめて一集とした。後に太子家令となり管記を再び掌った。普通元年、母の喪で去職。筠は孝性に篤く喪に服する間は礼を超えて痩せ衰えた。大通二年、司徒左長史となり、三年、昭明太子が薨じると勅で哀策文を製作しまた称賛された。まもなく臨海太守に出されたが在郡中の侵刻(不正な収奪)が発覚し、還る際の資材に芒屩(草鞋)二舸ほどの他物を積んでいたため有司に不調と奏された。祕書監・太府卿・度支尚書・司徒左長史を歴任し、簡文帝の即位後は太子詹事となった。

家系と晩年

  • 筠の家は千金の富があったが、性は倹嗇で外見は粗末な服を着け、乗る牛にも青草を飼うほどであった。乱に遇うと旧宅は賊に焼かれ、国子祭酒蕭子雲の宅に寓居していたが、ある夜盗賊に襲われ驚いて井戸に落ち卒した。時に六十九歳。家人十二口が同時に害され、屍は空井に積み重ねられて棄てられたという。筠は容貌が小柄で身長は六尺に満たなかったが、性は寛厚で技芸をもって人に高ぶらず、才名は控えめであったが劉孝綽とともに当時重んじられた。自らの序に「私は若い頃から抄書を好み、老いてなおいっそう篤くなった。たとえ一瞥しただけでもすぐに書き留め、後で読み返すたびに興が深まる。習慣が性となり筆の労も苦にならない。十三、四歳から建武二年乙亥に至り梁の大同六年まで四十年になる。幼時に五経を読むたびに七、八十遍を重ね、『左氏春秋』を愛して常に口ずさみ、広く要を取捨して三たび全篇を通読し五度抄写した。その他の経書・『周官』『儀礼』『国語』『爾雅』『山海経』『本草』も再度抄写し、子・史の諸集は一遍ずつ抄写し、人に代筆を頼まずすべて自ら手ずから記録した。大小百余巻に及ぶが、これらを世に伝えるほどのものではなく、ただ忘却に備えるためのものにすぎない」と記した。また子らに宛てた書で家門の集について「史伝は安平の崔氏や汝南の応氏が代々文才に恵まれたと称するが、范蔚宗(范曄)が言うように崔氏の『雕龍』も父子二、三代を超えない。七代にわたり名徳が重ねて輝き爵位が相継ぎ、人ごとに文集があるのは我が家門のようなものはない」と述べた。沈約もかつて「私は若くして諸子百家の言を好み、身をもって四代の史を編んだが、開闢以来、爵位・文才が代々連なり王氏のように盛んな家はまだない」と語ったという。筠は「汝らは家の堂構を仰ぎ見て、各々努力せよ」と述べ、自ら文章を一官ごとに一集としてまとめ、洗馬・中書・中庶・吏部・左佐・臨海・太府の各十巻と尚書三十巻、合わせて百巻が世に行われた。子の祥は陳に仕えて黄門侍郎となった。揖のもう一人の子は彬。