南史卷二十二 列傳第十二 王志
王志、字は次道(?–天監九年)。梁武帝入城の際、東昏侯誅殺の連署に加わらず目まいを装って署名を拒んだ清節の士。吏部尚書・丹陽尹・中書令を歴任し、藁隷(草書)の名手として「書聖」と称された。
経歴
- 志、字は次道。慈の弟。九歳で生母の喪に居り哀しみのあまり身が痩せ、中表の人々に異とされた。弱冠で宋の孝武帝の娘安固公主を娶り駙馬都尉に拝された。褚彦回が司徒であった頃、志を主簿に引き父の僧虔に「朝廷の恩は特別なものではあるが、光栄はご子息を得られたことにある」と述べた。宣城内史に累遷し清謹で恩恵を施し、郡人の張倪・呉慶が長年争っていた田の訴えが解決した際、父老は「王府君の徳政があってこそ、我が郷里にこのような争いが起こったことを解決できた」と語り、倪・慶は罪を詫び合い、争った土地は閒田となった。東陽太守に転じ、郡獄に十余人の重囚がいた冬至の日、皆を家に帰らせ、節を過ぎて全員が戻ったが一人だけ期限に遅れた。志は「これは太守の責任、主者は心配するな」と述べ、翌朝その者は戻り、妻が身ごもっていたためだと知れ、吏人はますます感服した。吏部尚書となり選部で公平を評され、崔慧景の乱平定後は例により右軍将軍を加え臨汝侯に封ぜられたが固辞し、右衛将軍に改められた。梁武帝の軍が城内に入り東昏侯を殺した際、百僚は連署して首を送ったが、志は「冠が弊れても足に用いてよいか」と嘆じ、庭の樹葉を取って揉んでこれを口に含み、目まいと称して署名しなかった。梁武帝は署名のない牋を見て志の心を嘉し、あえて咎めなかった。霸府建国後は驃騎大将軍長史となり、梁台建国後は散騎常侍・中書令に至った。天監初め、丹陽尹となり清静な政を行い、都下の子のない寡婦が姑の葬儀のため借金をして返せずにいると、志はその義を憐れんで俸禄で償わせた。飢饉の年には毎朝郡門で粥を施し百姓に配り、皆その恩恵を称えた。常に子姪に「謝荘は宋の孝武帝の時に中書令に止まったが、私が謝荘を超えるはずがない」と語り止足の心を持ち続けた。天監三年、散騎常侍・中書令となり病を理由にしばしば賓客との交わりを断り、九年、散騎常侍・金紫光禄大夫に遷り卒した。志は藁隷(草書の一体)を能くし当時の楷法とされた。斉の游撃将軍徐希秀も能書で知られたが、常に志を「書聖」と称した。志は建康の禁中の里・馬糞巷に住み、父僧䖍の家風の寛恕をよく受け継ぎ、いっそう篤厚で、罪咎を得た者を弾劾することがなかった。門下の客がかつて志の車の幰(幌)を盗んで売り払ったが、志はそれを知りながら問わず、以前と変わらず接した。彼の門を訪れる賓客はその過ちを覆い善行を称えるほどであった。兄弟子姪も皆篤実謙和で、当時の人はこれを「馬糞の諸王を長者と号す」と称えた。普通四年、志は改葬にあたり武帝から厚い賻贈を受けた。諡は安。五人の子、緝・休・諲・操・素がおり、志の弟は揖、太中大夫の位にあった。揖の子は筠。