経歴
- 訓、字は懐範。生まれつき紫色の胞衣に包まれており、乳母は「必ず貴人になる」と占った。幼くして聡明で識量があり、僧正の恵超はこれを見て「四郎(訓)は眉目疎朗で挙動も調和がとれ、この者は家門を興す者だ」と門人の羅智国に語った。智国がこれを暕に伝えると、暕は「基業を絶やすまい、それは文殊(訓の小字)にある」と応じた。十三歳の時、暕が亡くなり悲しみが甚だしく家人も驚くほどであった。十六歳で文徳殿に召見され応対が明晰で、武帝は見送りながら朱异に「まさに相門に相あり、と言うべきだ」と語った。初め国子生に補される試験で師の袁昻に「久しく高名を聞き会う前から想像していたが、実際に接すると雲霧を払われるようだ」と言われ、まもなく諸袁の子弟が来ると昻は諸助教に「わが子が十数人いても、このような子が一人でもいれば恨みはない」と語った。射策で祕書郎に除され祕書丞に累遷、かつて「旦奭は世を匡け功あり、蕭曹は民を佐く」という詩を作り、祖父儉の志を追慕した。後に侍中に拝し、武帝に謁見した際、帝が何敬容に「褚彦回が宰相となったのは何歳の時か」と問うと、敬容は「三十を少し過ぎた頃です」と答え、上は「今の王訓は彦回に劣らない」と語った。訓は容儀美しく進退を能くし、文章は後進の領袖となった。二十六歳で卒し諡は温。