南史卷二十一 列傳第十一 王僧祐

清廉の生涯

  • 逺の子僧祐、字は胤宗。幼くして聡悟。叔父の㣲はその頭を撫でて「この子の才知は凡俗ではあるまい」と言った。従兄の倹に重んじられ、倹が笳を鳴らし騎馬を連ねて訪ねるたびに僧祐は病と称して出迎えなかった。倹は「これこそ私が望む人物だ」と言った。世の人は倹の名徳を愛する心と、僧祐が権勢に趨らぬことを重んじた。弱冠前に相次いで喪に服し、至孝で喪が明けても髪はほとんど抜け落ち冠帽を被れないほどだった。秀才に挙げられ驃騎法曹となったが、痩せ衰えて任に堪えず、博く古を好み老荘を善くし華美を尊ばず、草隷を工み琴を善くし、亭然として世俗と交わらなかった。沛国の劉瓛はその評判を聞いて敬慕し、上書して著作佐郎に推薦し、司空祭酒に遷ったが病と称して公卿と交わらなかった。斉の高帝が王倹に「卿の従弟はまさに朝隠と言うべきだ」と言うと、倹は「私の従弟は高人に妄りに倣うのではなく、ただ閑を愛し病が多いだけです」と答えた。倹に贈った詩に「汝の家は市門にあり我が家は南郭にある。汝の家は賓客に富み我が家は鳥雀に富む」と詠んだ。倹は当代随一の声望を誇り賓客が門に満ちたが、僧祐はこれに屈せず、人々はこれを褒めた。晋安王文学に遷り、陳郡の袁彖と友となり、時人はこれを妙選と評した。斉の武帝が閲武を行った際、僧祐は「講武賦」を献じ、王倹は借覧を求めたが与えなかった。竟陵王子良はその琴の腕を聞き、座で琴を取り上げ演奏を求めたが従わなかった。永明末、太子中舎人となり在直中病と称して来客に対応せず立ち去ることがあり、中丞の沈約は「情に任せ気ままに振る舞い朝典を顧みない」と弾劾し、贖罪により論罪された。当時、何点・王思逺らが交わりを求めたが応じず、天子から侯伯に至るまで一人としてこれと游ばなかった。黄門郎で卒した。子の籍。