隠逸の生涯
- 㣲、字は景玄。𢎞の弟で光禄大夫孺の子。少くして学を好み文を能くし書を工み音律・医方・卜筮・陰陽数術に通じた。宋の文帝から名蓍を賜った。初め始興王友となったが父の喪で去職。㣲はもともと仕官を望まず、喪明けの後は南平王鑠の右軍諮議参軍、続いて中書侍郎となった。兄の逺が免官され長年不遇であるのを見て、㣲は「兄が無事に廃されているのに、私だけが分不相応な地位を得るのはどうしたことか」と嘆いた。文帝は逺を光禄勲に任じた。㣲は文を好み古めかしい言を好んだため、袁淑がこれを見て「訴えたいことがあるのだろう」と評した。吏部尚書の江湛が㣲を吏部郎に推挙したが、㣲は固辞して受けなかった。時の論者は「㣲が推挙されたのは廬江の何偃も議に参与したためだ」と言い、偃はこれを気にして㣲に自ら弁明の書を送ったが、㣲は返書で世俗を離れた心境を深く述べた。従弟の僧綽が文帝の意を伝えて出仕を促し、留まって宿泊させたが、㣲は天文に通じ大変事の予兆を知り、僧綽と共に夜空を仰いで「この上(天)は人を欺かない、智者でなければ免れられまい」と語り、辞して出仕しなかった。まもなく元凶(劉劭)の変が起こった。㣲は常に門屋の一室に住み書を読み古を玩び、足を地に付けず終日端座し、牀席には塵が積もったが座る所だけは清潔だった。
- 弟の僧謙も才誉があり太子舎人となったが病にかかり、㣲は自ら治療にあたったが、僧謙が薬の分量を誤り卒した。㣲は深く自らを責め、発病しても治療を拒み、僧謙を哀悼する書を霊前に告げた。僧謙の死後四十日で㣲も没した。遺言で薄葬を命じ、轜(喪車)や旐(旗)を用いず、五尺の牀を霊とし、二夜で毀ち、常に弾いていた琴を牀に置いた。何長史偃が訪れるとその琴を与えた。子はなく家人はその遺志に従った。著した文集が世に伝わり、秘書監を追贈された。㣲の兄逺、字は景舒は光禄勲に至った。当時の人は「逺は屏風のように世俗に応じて曲がりながらも風露を防ぐ、道理に逆らわない人物だ」と評した。