南史卷二十一 列傳第十一 王融

才気と横死

  • 融、字は元長。幼くして聡明で、母は臨川太守謝恵宣の娘。教育熱心で融も書を学び博識で文才があった。従叔の王倹は「この子は四十歳になれば自然と名声・地位を得るだろう」と評した。祖父の推挙で秀才に挙げられ太子舎人に累遷、父の官途が閉ざされていたため、若くして家業を興そうと斉の武帝に自薦し秘書丞に遷った。従叔の倹が儀同三司を授けられた際、贈った詩と書に倹は大いに感心した。丹陽丞・中書郎を歴任。
  • 永明末、武帝が北伐を計画し毛惠秀に「漢武北伐図」を描かせると、融はこれに乗じて北侵を進言する上疏をし、絵は琅邪城の射堂の壁に掲げられ武帝の遊幸のたびに見られた。永明九年、芳林園の禊宴で融が曲水詩序を作り当時称賛された。武帝は融の才弁を評価し主客を兼任させ、北魏の使者房景高・宋弁を接待させた。宋弁が融の若さを問うと融は「五十の齢のうちすでに半分を過ぎた」と答え、景高は「北で聞いた主客の曲水詩序が延年(謝荘)にまさると聞き、ぜひ見たい」と述べ、融がこれを示すと、宋弁は瑶池堂で「昔、司馬相如の封禅を見て漢武の徳を知った。今、王生の詩序を見て斉主の盛を知る」と評した。融は「皇家の盛明は漢武など比ぶべくもない、拙作は相如に遠く及ばない」と謙遜した。
  • 上は北魏が送ってきた馬が優れないと不満で、融に問わせると、融は「秦西・冀北には駿馬が多いのに、魏の良馬が駑馬同然なのは、旦旦と誓ったことがいつか破られるのと同じで、駉駉の牧が続かなかったのだろう」と述べた。宋弁が「土地に慣れないだけだろう」と答えると、融は「周の穆王の馬跡は天下に及んだが、騏驎の性が地によって変われば、造父の御術も時に躓く」と反論した。宋弁が「王主客はなぜそこまで千里を求めるのか」と問うと、融は「貴国の優劣を試したまでで、千里の馬が至れば聖上は鼓車で迎えるだろう」と答え、宋弁は「その意図なら鼓車で迎えることはできまい」と返し、融は「死馬の骨を買うのも郭隗の故事に倣ったまでだ」と応じ、宋弁は答えられなかった。
  • 融は名利を求めて焦り、三十歳前に公輔の位を望んだ。司徒法曹となった際、王僧祐を訪ねて沈昭略と会い、昭略が「これはどこの若者か」と繰り返し眺めると、融は不満げに「私は扶桑より出て暘谷に入り天下を照らす者、なぜ知らぬと問うのか」と言い返した。昭略は「知らぬ、まずは蛤蜊でも食え」と答え、融は「物は群れで分かれ類で集まる、君は東方の出身だからこの類を好むのだろう」と自らを高く位置づけた。中書郎になった頃、案を撫でて「これほど寂しいとは、鄧禹に笑われる」と嘆き、朱雀橋で人が塞がると車の壁を叩いて「車中に七尺(自分)がいなくてもいいが、車前に八人の騎士がいないのは許せぬ」と言った。
  • 北魏軍が動くと竟陵王子良は東府で兵を募り、融を寧朔将軍軍主に任じた。融は文才に優れ即座に文章を作った。子良は特に親しくし、晩年融は騎馬を習い江西の傖楚数百人を集め能力ある者とし、融が謀主となった。武帝が病篤く一時息を止めた際、子良が殿内にいて太孫がまだ入っていなかった隙に、融は戎服の絳衫姿で中書省の閤口で東宮の兵仗を通さず、詔草をすでに立てて子良を擁立しようとした。梁の武帝(蕭衍)は范雲に「左手で天下の図を握り右手でその喉を刎ねるようなことは、愚夫でもしない。主上の大漸に際し国家には故事があるのに、非常の挙が噂されているが、君は聞いているか」と述べたが、雲は答えなかった。まもなく帝が崩じ、融は子良の兵を分けて諸門を固めたが、西昌侯(蕭鸞)が急を聞いて雲龍門に駆けつけ入れないでいると「勅で我を召した」と偽って押し入り、太孫を奉じて即位させ、左右に子良を扶け出させた。子良は指揮の声が鐘のように響いても殿内の者は誰も従わず、融は事の失敗を悟り服を脱いで省に戻り「公(子良)が我を誤らせた」と嘆いた。
  • 鬱林王(蕭昭業)が即位して十余日、融は捕らえられ廷尉獄に下され、中丞の孔珪が奏文を起草し「融の性質は剛険で身の処し方が軽薄、異類と交わり群を驚かせる言動をなし、辺境で微塵の功を貪って将領を求め、招いた者は不逞の輩で荒れた傖人を扇動し狡猾に威声を弄び、専断で権利を行い、言葉を翻して人心を動かし、威福をほしいままにして憚るところなく、朝政を誹謗し王公を歴詆し、自らの才を天下無双と考え、事は遠近に知れ渡っている」と弾劾した。融は「囚(自分)は頑迷で行いに過ちが多いが、幼少より奉教し州閭郷党にも許されてきた。先の大行皇帝(武帝)の恩、文皇帝(文恵太子)の識抜の重み、司徒公(子良)に士林への列を賜り、安陸王の恩顧を受け、前後して征伐の計を進言したのも先朝の裁可を仰いだもの。今回北方の侵攻に際し符詔の起草を命じられ、司徒の宣勅による募集も同例で、事は軍事であり辞退できず、軍号を受けて招集を行ったので、扇動の意図はない。威声を張ったというが賄賂などなく、言葉を翻したというが誰と話したか不明であり、頬舌を動かしたというのも主張は明らかである。甘露の頌や銀甕の啓、三日詩序で北魏の使者への応対に言葉を尽くし称揚したのを誹謗と言うのか。囚の才は劣り誤って登用されたが、常に悚れ慎んできたのに全て流言に帰される。明皇(新帝)が天下に恩沢を及ぼし、戊寅の赦で軽重ともに赦されるのに、旬日の間に一人だけ厳刑を受けるのか」と弁明した。融が捕らえられると友人・部下が北寺に相次いで訊問に訪れ、子良に救いを求めたが子良は救わず、西昌侯も争わなかったため、獄で死を賜った。時に二十七歳。臨終に「もし百歳の老母のためでなければ、一言あったものを」と嘆いた。融の真意は帝が東宮にいた頃の過失を指弾するつもりだったという。先に太学生の会稽の魏準が才学により融に評価され、子良を奉じようとした事に加担し、太学生の虞羲・邱国賓は密かに「竟陵(子良)は才が弱く王中書(融)は決断力がない、失敗は目前だ」と語っていた。融の誅殺後、準は召されて舎人省で詰問され、恐れて死に、体はみな青ざめていたという。準の胆力が破れたことを人々は言い、融の文集は世に行われた。