南史卷二十 列傳第十 謝弘微
謝舉(字言揚)は謝覧の弟。玄理・仏教義理に通じた文人官僚で、梁の武帝に長く重用され尚書令にまで至った。侯景の受け入れをめぐる進言が容れられなかったことで知られる。
謝弘微――出自と経歴
- 謝密、字は弘微。晋の西中郎謝万の曾孫であり、尚書左僕射謝景仁の従子である。祖父の韶は車騎司馬、父の思は武昌太守。弘微は十歳で従叔の峻の養子となった。峻の名は継嗣先の内諱に触れるため字で通した。幼少の頃から精神は端正で慎重、常に考えてから言葉を発した。継父の叔父にあたる混は人物眼があり、彼を非凡と見て思に「この子は深く聡明で、いずれ立派な人物になるだろう、こんな子がいれば十分だ」と語った。
- 峻は司空謝琰の子で、弘微とは本来五服のうち緦麻の遠い親戚で、中表の親族の中でも素より面識がなかったが、弘微は自然と礼にかなった接し方をした。義熙初年(405年)、建昌県侯の爵位を継いだ。弘微の生家は貧しく質素であったが、継嗣先は裕福で、書数千巻と国吏数人だけを受け取り、遺産や俸禄には一切手をつけなかった。混はこれを聞いて驚嘆し、国郎中令の漆凱之に「建昌国の禄は本来北舎(生家)と分け合うべきだが、国侯が意に介さないなら通常の割合で送るべきだ」と言ったが、弘微は混の言葉を重んじつつも少ししか受け取らなかった。北舎とは弘微の生家のことである。
- 混は品格が高く、交友を絞り、族子の靈運・瞻・晦・曜とのみ文義を通じて交わり、烏衣巷に住んでいたためこれを「烏衣の游」と呼んだ。混の詩に「昔為烏衣游、戚戚皆親姓」とあるのがこれである。名門の高流の者や当時の名士も彼の門を敢えて訪ねなかったが、瞻らは才弁豊かでも、弘微は簡潔な言葉で彼らを納得させた。混は特に弘微を敬い重んじ「微子」と号し、瞻らに「お前たちは皆才知豊かだが必ずしも衆心に叶うとは限らない。要点を掴み理を尽くす点では私も微子に及ばぬと言うべきだ。私はいつも阿遠(瞻)は剛直だが気短、阿客(晦、字客兒)は博識だが慎みに欠け、曜は才を恃み節操が定まらず、晦は自らを知りながら善言を十分に容れない、たとえ功業を成し遂げてもこの点は悔いが残ると言ってきた。ただ微子だけは私に何の異論もない」と語り、さらに「微子は異なることで物を害さず同じであっても正を害わない、もし年が六十に至れば必ず公輔に至るだろう」と述べた。
- かつて酒宴の折、韻語を作って靈運・瞻らに勧めたが、その中で「微子基微、尚無倦、由慕藺、勿軽一簣」(微子は基を微かにしても倦むことなく、藺相如を慕い一簣たりとも軽んじない)と述べる一方、他の者への言葉には必ず戒めが含まれていたのに対し、弘微だけには全て褒め言葉であった。曜は弘微の兄で、字は通遠、瞻の字は客兒は靈運の幼名である。
- 晋代の名家では自身が国封を有する者は起家に員外散騎侍郎を拝することが多く、弘微もまた員外散騎侍郎、琅邪王大司馬参軍を拝した。義熙8年(412年)、混が劉毅の党として誅せられ、混の妻の晋陵公主は琅邪王練に再嫁したが、公主は固辞し詔により謝氏との離縁が命じられた。公主は混の家事を弘微に委ねた。混は代々宰相を出す家柄で、一門に二つの封地、田業十余処、奴僕千人があったが、残されたのは二人の娘だけで幼く、弘微が生業を経営し、公のことのように処理し、銭一枚布一尺の出入りも帳簿をつけた。
- 宋武帝が禅譲を受けると晋陵公主は東郷君に降格されたが、混が前代に罪を得たとはいえ東郷君は節義があり称賛に値するとして、謝氏に戻ることを許された。混の死から九年、屋敷は整い倉庫も満ち、門下の使用人も昔と変わらず、田畑の開墾もむしろ増えていた。東郷君は「僕射(混)は生前この一人の子を重んじたが、まさに人を知る者と言うべきだ、僕射は死んでいないも同然だ」と嘆いた。内外の姻戚・僧俗の旧知は東郷君の帰還を見て皆嘆息し、あるいは涙する者もいた。弘微の義に感じ入ったのである。
- 弘微は性格が厳正で立ち居振る舞いは礼にかない、継嗣先の親族に対しても恭謹さを常に超え、伯叔の二人の母や帰宗した二人の姑には朝夕欠かさず礼を尽くした。内外の伝言があるたびに必ず衣冠を正し、婢僕の前でもみだりに言葉や笑いを漏らさなかった。これにより尊卑を問わず皆彼を神のごとく敬った。当時、蔡湛之という者が謝安兄弟を見知っており「弘微の容貌は中郎(謝万)に似て、性質は文靖(謝安)に似ている」と人に語った。
- 文帝が宜都王として封ぜられ江陵に鎮した際、琅邪王球を友とし、弘微を文学とした。母の喪で職を辞し、喪に服して孝行と称され、服喪期間が過ぎても長く精進を保った。文帝即位後、黄門侍郎となり、王華・王曇首・殷景仁・劉湛らと「五臣」と号された。尚書吏部郎に遷り機密に参与し、まもなく右衛将軍に転じた。故吏や旧臣・佐吏の選任もすべて弘微に委ねられた。彼の暮らしは清貧倹約で服装も華美ではなかったが、飲食の味には十分心を尽くした。
- 兄の曜は御史中丞・彭城王義康の驃騎長史を歴任し官職にあったまま没した。弘微は哀しみが礼を超え、喪が明けても魚肉を口にしなかった。沙門の釈慧琳がかつて彼と食事を共にした際、なお蔬食を続けているのを見て「檀越(あなた)はもともと病が多かった。吉事に転じてもなお全快されていない、もし食を絶つことが益なくかえって身を損なうなら、道理に適うとは言えない」と言うと、弘微は「衣冠の作法は変わっても礼を踰えるわけにはいかない。心にある悲しみは実にまだ止められない」と答え、ついに食を断ち嗚咽して耐えられなかった。
- 弘微は幼くして父を失い、兄に父のように仕え、友愛は極まり世に並ぶ者がなかった。人の短所を口にせず、兄の曜が人物の是非を論じるのを好むと聞くたびに常に話をそらした。中庶子に累進し侍中を加えられたが、官途に恬淡で権寵を畏れ憚り固辞して拝命せず、中庶子の解職だけは許された。上奏や献策のたびに必ず自ら草稿を書き、終われば焼き捨てたため誰もその内容を知らなかった。帝は弘微が料理上手であることから、いつも食事を求めた。弘微は親旧とともに準備し、進めた後で親しい者が帝の食べたものを尋ねても答えず、他の話でごまかした。当時の人はこれを漢代の孔光になぞらえた。
- 東郷君が薨じると、遺産の千万銭と園宅十余所、さらに会稽・呉興・琅邪の各地に太傅安(謝安)・司空琰(謝琰)以来の事業や奴僕数百人が残された。公私ともに屋敷の財産は二人の娘に、田宅・奴僕は弘微に帰すべきと考えたが、弘微はこれを一切受け取らず、自らの俸禄で葬儀を執り行った。混の娘婿の殷叡は博打を好み、弘微が財物を取らないと聞くと、妻の妹や伯母・二人の姑の分まで濫りに奪って博打の負債の返済に充てた。家人は皆弘微の謙譲に感化され誰も争わなかった。弘微の外従兄弟で領軍将軍の劉湛は弘微に「天下の事にはけじめが必要だ、卿はこの件を問わずしてどうして官を務められようか」と言ったが、弘微は笑って答えなかった。ある人は「謝氏累代の財産が殷君一人によって一朝にして博打の負債に消えたのは、物を江海に捨てたようなもので廉潔とは言えまい」と非難したが、弘微は「親戚が財産を争うのは最も卑しいことだ。今、身内の者が何も言わずにいられるのに、なぜそれを争わせる方向に導こうか。今は多くを分け少なく取っても不足には至らない。私の死後のことまで関わることはあるまい」と答えた。
- 混の墓に葬られた際、弘微は病を押して臨席し、病はその後重くなった。元嘉10年(433年)、享年42で没した。文帝は深く惜しみ謝景仁に「謝弘微・王曇首は四十を超えても名位が才に見合っておらず、これは朕の責任だ」と言った。
- 弘微は寛容で喜怒を表さぬ性格であったが、晩年、友人と囲碁をしていた際、友人の西南方の石が死に体になったのを見て別の客が「西南の風が急だ、舟が転覆する者もあろう」と言うと、友人はこれを悟って救おうとした。すると弘微は大いに怒り碁盤を地に投げつけた。見識ある者はこれが晩年の異変の兆しであることに気づき、果たしてその年のうちに没した。
- 当時、一人の背の高い鬼が司馬文宣の家に寄り、「弘微を殺せと命じられた」と言い伝えられていた。弘微の病はいつも重くなるたびに文宣に予告があり、弘微が死んだ日、この鬼は文宣に別れを告げて去ったという。臨終に左右に「二通の封書がある、劉領軍(劉湛)が来たら目の前で焼いてほしい、決して開けてはならない」と言った。この書は文帝の手勅であった。帝は大いに痛惜し、二人の衛士千人を遣わして葬儀を執り行わせ、太常を追贈した。
- 弘微は琅邪の王恵・王球とともに簡素で淡白な人柄で知られ、人が沈約に「王恵はどうか」と問うと、約は「令明(王恵の字)は簡である」と答え、次に王球を問うと「倩玉(王球の字)は淡である」と答え、さらに弘微を問うと「簡にして流れず、淡にして失わず、古のいわゆる名臣とはこの人のことだ」と答えた。彼の評価はこれほど高かった。子が莊である。
謝莊――経歴
- 莊、字は希逸。七歳で文を作り、成長すると詔令の才があり容儀も美しかった。宋文帝は彼を見て非凡と評し、尚書僕射殷景仁・領軍将軍劉湛に「藍田は玉を生む、まさにこのことか」と語った。隨王誕の後軍諮議・領記室となり、左氏経伝を隨国に分けて篇を立て、木で方丈の図を作り山川・土地を各々分けて描き、離せば州郡それぞれ、合わせれば宇内が一つになるようにした。
- 元嘉27年(450年)、魏が彭城を攻めた際、尚書の李孝伯を派遣し鎮軍長史の張暢と語らわせた折、孝伯は莊と王微の名を尋ねたという。その名声はこれほど遠くまで及んでいた。元嘉29年(452年)、太子中庶子に除された。南平王鑠が赤鸚鵡を献じた際、帝が群臣に賦を作らせた。太子左衛率の袁淑は当代随一の文才として賦を作り終えると莊に示したが、莊の賦を見て「江東に我なくば卿こそが独り秀でるべき人、我がいてもまた一時の傑たるものだ」と嘆じ自らの賦を隠してしまった。
- 元凶が弑逆して即位すると司徒左長史に転じた。孝武が討伐に入ると檄書を莊に送って正し布告させた。莊は腹心の門生具慶に文書を持たせ密かに孝武のもとへ送って誠意を表した。帝が即位すると侍中に除された。魏が通商を求めた際、帝が群臣に議論させると莊は「拒んで様子を見るべきだ」と述べ強硬論を示した。
- 驃騎竟陵王誕が荊州に赴くにあたり丞相荊州刺史南郡王義宣を召したが、義宣は固辞して入朝せず、誕は日を決めて船出しようとした。莊は丞相にはもとより入朝の意志がないのに驃騎が出発の期日を決めるのは、まるで相手を追い詰めるようだと考え、帝は誕の出発を延期させたが、義宣は結局それでも出向かなかった。孝建元年(454年)、左将軍に遷った。
- 莊は弁舌に優れ、孝武がかつて顔延之に「謝希逸の月賦はどうか」と尋ねると延之は「美しいことは美しいが、『始めて隔千里兮共明月』の句を知るのみだ」と答えた。帝は莊を召してこの延之の言葉を伝えると、莊はすぐさま「延之が作った秋胡詩に『始知生為久離別、没為長不帰』とあります」と応じ、帝は一日中手を打って喜んだ。また王玄謨が莊に「何が双声で何が畳韻か」と問うと、莊は「玄護は双声、磝碻は畳韻です」と即答した、これほど機敏であった。
- かつて孝武が莊に宝剣を賜り、莊はこれを豫州刺史魯爽に贈った。爽が反乱を起こした後、帝が宴でその剣の行方を問うと莊は「昔、魯爽に贈りました、ひそかに陛下のための杜郵(秦の白起を処刑した地)の賜物としたつもりです」と答え、帝は大いに喜び、この機知を称えた。
- 当時、人材登用の道が狭くなっており、莊は表を奉って賢者登用の重要性を論じた。その要旨は――功績が魏に傾いたのは車の輝きだけでなく、徳が秦の客を柔らげたのも璧だけの働きではない。国の盛衰の由来は、賢才を得るか士を失うかにかかっている。だから楚の書は善人を宝とし、虞の典は明知の人材を求める道を難事とした。選抜の道が廃れれば政治も乱れる。今こそ根本を固め務めを人々に益するために、旧制度の煩雑さを改め新たな道を開くべきだ。才は時により古今変わらず、士は世の治乱を問わず生まれる。だが実際には遇不遇、用不用の違いがあるだけだ。今、天下は太平にあり万事が徳を待ち、四方の広がりと諸流の困難を選部(人事担当)一人の鑑識に委ね天下の才を測るのは、限りある鑑識で限りない才を測るようなもので、賢を国に留め野に人材を漏らさぬことなどできようか。昔、公叔は臣下を登用し、管仲は盗人(の推薦者)を昇進させ、趙文は私情によらず親疎を問わず、祁奚は仇であっても推薦を惜しまなかった。前例に従い知る者を挙げるべきは古典の教えである。かつ古来、任命・推薦の制度は賞罰を明確にし、成子(趙衰)は三人の賢者を挙げて自ら魏の輔となり、応侯(范雎)は二人の士を用いて秦の相の地位を譲った。臼季は冀缺を推薦してその封地を得、張勃は陳湯を推薦して爵を剥奪された。これらは先例の盛んな規範であり後王の鑑とすべきものである。臣が思うに、大臣が各々知る人材を推挙し、これを尚書に委ねて分けて登用させ、もし任に適う者を挙げれば挙主に賞を与え、不称職の者があれば軽重に応じ免黜・左遷し、推挙された者にも禁錮の年数を過失に応じて定め、大辟に及ぶ罪を犯せば推薦者も刑に問うべきである。また政治が公平で訴訟が正しく処理されるかどうかは、まず民に親しい役人にかかっている。それゆえ黄霸は潁川に何年も、杜畿は河東に何年も治め、恩秩を加えられたり栄誉を受けたりした。今、民を治める職には六年の任期を定め、進んでは功績を明らかにし、退いては民を疲弊させないようにすべきだ。こうすれば上は有能な人材を捨てず、下は民を惑わせない。考績の風は盛んになり、薪を積むように人材が集まり、政治は明るく開けるだろう。文帝の時代は年齢三十で仕官し郡県は六年ごとに交代させ、刺史は十年余に及んだが、この頃はすべて改められ、任官の年齢を問わず、民を治める任期も三年で満期とするようになった。宋の善政はこうして衰えていったのである。
- この年、吏部尚書を拝したが、莊は元来病がちで選部の職を望まず、大司馬江夏王義恭への手紙で「両脇の痼疾は生まれつきに近く、一月に発作は二三度を下らず、痛みが心に迫るたびに気力が細り、数年で持病となりました。眼の不調は五ヶ月来悪化し、夜も帷を閉じて風を避け、昼も朦朧として朝謁や慶弔にも出られません。今おる場所はただ小閣の下のみです。官命は天下からすれば軽微ですが、身にとっては重い。家系は代々長寿がなく、高祖は四十、曾祖は三十三、祖父は四十七で亡くなり、私は新年で四十五となります、この病でどれほど長く生きられましょうか。年が経つ前にこの願いを申し上げ、死をもって固く辞したく、お側で申し上げる機会を賜れば幸いです」と自陳した。大明元年(457年)まで三年間、病を理由にたびたび免官された後、都官尚書に起用された。上は当時親しく朝政を統べ、権力が臣下に移ることを憂い、吏部尚書の選挙の権限を軽くしようとした。大明2年(458年)、詔で吏部尚書の職務を分割し諸部を詳しく統括する閑職とし、さらに太宰江夏王義恭に別詔し「吏部尚書は従来、録尚書と共に選任にあたってきたが、一人の見識で万事を判断できず、権限を委ねすぎるのも良くない」として吏部尚書を二人置き、五兵尚書を廃した。莊と度支尚書顧顗之が選職を補い、左衛将軍に遷り給事中を加えられた。
- 当時、河南から舞馬が献上された際、詔で群臣に賦を作らせ、莊の献上した賦は特に美しく、莊に舞馬歌を作らせて楽府に演奏させた。大明5年(461年)、再び侍中・領前軍将軍となった。孝武が夜に外出から戻り開門を勅した際、莊が居守として棨信(正式な通行証)がなければ夜間は墨詔(略式命令書)が必要だとして開門しなかった。上は後の宴の折り「卿は郅君章(漢代の頑固な門番)を真似るつもりか」と冗談を言うと、莊は「臣が聞くに、狩猟にも度があり、郊祀にも節度があるべしと申します。遊猟に耽ることは前代の戒めです。陛下が今、塵露を冒し朝早く出て夜遅くに戻れば、不逞の徒が偽りの詔を装う恐れがあります、臣はそれゆえ確かな命令書を求めたのです」と答えた。大明6年(462年)、再び吏部尚書・国子博士を領し、選挙で公車令張竒を採用したことに連座し免官された。この事は顔師伯伝に記されている。
- のちに呉郡太守に除された。前廃帝即位で金紫光禄大夫となった。かつて孝武の寵姫殷貴妃が薨じた際、莊が誄を作り「賛軌堯門」の句で漢の昭帝の母趙婕妤の「堯母門」の故事を引いたが、廃帝は当時東宮にあり殷貴妃の子への遇を疎まれていたため、このことを恨んでいた。廃帝は使者を送り莊に「かつて殷貴妃の誄を作ったが、その時東宮(自分)の存在を知っていたのに誅殺しなかったことを恨んでいる」と告げた。孫奉伯が帝に「死は誰しも同じもの、ただ一時の苦しみに過ぎず困窮とは言えません。莊はもとより富貴を極めた身、まず尚方(獄)に繋いで天下の苦しみを知らしめてから殺すのが遅くはないでしょう」と説くと、帝は「その通りだ」と言い、莊を左尚方に繋いだ。明帝が動乱を鎮めると赦令が下り莊は出獄し、赦の詔を作らせるため夜、莊を署に出したところ、莊はちょうど酒を酌み微酔していたが、伝詔(勅使)が立って待つ間に文を仕上げ、その文は甚だ巧みであった。
- のちに尋陽王師・中書令・散騎常侍を加えられ、まもなく金紫光禄大夫を加えられ、親信二十人を賜り、没した。右光禄大夫を追贈され、諡は憲子。著した文章四百余首が世に行われた。五子は颺・朏・顥・嵸・瀹([卄/瀹])。世人は「莊が子に風・月・景・山・水と名づけた」と評した。颺は晋平太守。娘は順帝の皇后となり、金紫光禄大夫を追贈された。
謝朏――経歴
- 朏、字は敬沖。幼くして聡慧で莊はこれを重んじ常に側に置いた。十歳で文を作り、莊が土山に遊んだ際、朏に一篇作らせると筆を執ってすぐに書き上げた。琅邪の王景文は莊に「賢子はまさに神童と称するに足る、後々きっと逸材となる」と言い、莊は朏の背を撫で「まことにわが家の千金だ」と言った。宋孝武帝が姑孰に遊んだ際、勅で莊に朏を同行させ、詔により「洞井讚」を作らせ席上で奏上させると、帝は「小さくとも奇童だ」と言った。
- 宋に仕え衛将軍袁粲の長史となった。粲は厳格な性格で当時の人は彼を李膺になぞらえたが、朏が謁見して退くと粲は「謝令はもう死ぬことはあるまい」と言った。宋明帝がかつて朏に謝鳳の子超宗と共に鳳・莊の門から入るよう命じたところ、超宗は「君命は行かねばならぬ」と急いで入ったが、朏は「臣は礼をもって君に仕える」と言い、進退の際にも入らず、当時の人はこの両者を王尊・王陽になぞらえて称えた。のちに臨川内史となったが賄賂を受けたとして弾劾され、袁粲がこれを揉み消した。
- 斉の高帝が驃騎将軍として輔政すると朏を長史に選び、禅代の計画を進めるにあたり彼を佐命の臣にしようとし左長史に遷した。毎夕酒宴を開き朏とだけ魏晋の故事を論じ、「石苞が晋文帝(司馬昭)に早く即位を勧めなかったのは、悲しんで哭泣したのが馮異になぞらえられるほどだったが、それは機を知る者ではない」と語ると、朏は「昔、魏の臣に魏武帝(曹操)へ即位を勧める者があったが、魏武は『私を用いる者があるとすれば周文王のようになるだろう』と答えた。晋文(司馬昭)は魏に仕える身、終身北面すべき立場であったし、たとえ魏が早々に唐虞の禅譲の故事に倣ったとしても、なお三度は辞退すべきものだった」と答えた。高帝は不興気であったため、代わりに王儉を左長史に据え、朏を侍中領秘書監とした。
- 斉が禅譲を受ける日、朏はちょうど当直で百官が並ぶ中、侍中は璽を解く役目を務めることになっていた。朏は知らぬふりをして「何の公事があるのか」と言い、伝詔が「璽を解いて斉王に授けるのです」と言うと、朏は「斉には当然侍中がいるはずだ」と言って枕を引き寄せ横になった。伝詔は恐れて病と称して代わりの者を立てようとしたが、朏は「私に病はない、何を言うのか」と言い、そのまま朝服のまま東掖門を出て車を得て邸宅に戻った。この日、結局王儉が侍中として璽を解いた。まもなく武帝は朏を誅せようとしたが、高帝は「殺せばその名声を高めるだけだ、放っておくのが良い」と言った。さらに家が貧しいことを理由に郡への赴任を願い出た際、その言葉は皮肉めいていたため詔で免官・禁錮五年とされた。
- 永明年間、義興太守となった。郡では雑事を顧みず綱紀(属官)に委ね、「私は主宰者たりえない、吏がよく太守を務めよ」と言った。都官尚書・中書令・侍中・新安王師を歴任し、出郡を求めて呉興太守となった。明帝が帝位継承を謀った際、朝廷の旧臣を引き入れようとしたが、朏は内心これに巻き込まれることを望まず、実際には事を避けていた。弟の瀹([卄/瀹])が吏部尚書であった際、朏が郡に至ると瀹に数斛の酒を贈り「力の限りこれを飲んでくれ、人事には関わるな」と書き送った。朏は郡にあって常務を顧みず、蓄財に励んだため多少の批判もあったが意に介さなかった。
- 建武4年(497年)、侍中中書令に召されたが応じず、子らを都に帰し、自らは母とともに郡の西郭に居を築いた。明帝は詔で厚遇し牀帳や褥席を賜り、俸禄を保った。当時、国子祭酒の廬江の何胤もまた表を奉って会稽に留まったため、永元年間、朏・胤を召したがともに応じなかった。東昏侯の時代には強制的な召還命令が下ったが、梁武帝が挙兵し建鄴が平定されると朏・胤はともに軍諮祭酒に補任されたが赴かなかった。梁武帝即位後、詔で朏を侍中左光禄大夫・開府儀同三司に、胤を散騎常侍・特進右光禄大夫に任じたがまた応じなかった。さらに領軍司馬王果を遣わして朏を説得させた。朏は何胤に相談したが、胤は自分だけ節義の高さを誇ろうとして偽って「新しい興隆の世にどうして久しく留まっていられよう」と言った。
- 翌年六月、朏は自ら軽装で闕に赴き陳謝した。帝は笑って「子陵(厳光の字、隠者の代表)もついに志を屈したか」と言い、詔で侍中司徒尚書令とした。朏は脚の病で拝謁できないと辞退し、角巾姿で輿に乗って雲龍門に赴いて謝辞を述べ、詔により華林園で謁見し小車のまま席に着いた。翌朝、帝は自ら輿駕で朏の邸に行幸し宴を催し歓談した。朏はなお固く本志を陳べたが許されず、また母を迎えに一旦帰ることを求めると許された。出発の際には輿駕が臨席し詩を賦して餞別し、勅使の往来が道に絶えなかった。都に着くと材官(工事担当官)に旧宅に府を建てさせ、武帝は輿に乗ってこれに臨み謁者を遣わして拝授させ、詔で公事や朔望の朝謁を免除した。
- 三年後の元会に朏を小輿で殿に上らせる詔が出されたが、朏は元来煩雑を嫌い、台の鉉(宰相の要職)を兼ねて内台の職も掌るようになると多くの職務を顧みなくなり、大いに衆望を失った。その年、母の喪に遭い、まもなく詔でそのまま職に留めることとなった。天監5年(506年)、中書監・司徒・衛将軍に改められたが固く辞退した。謁者が府門で拝命を促し続け、暮れから翌春夏まで八ヶ月にわたって説得され、その年の冬にようやく拝命したが、この冬に薨じた。車駕が出向いて哭し、諡を靖とした。
- 孝武の初め、朏が呉興にあった際、鶏卵を人々から徴発し数千個の鶏を収めたことがあり、また節義を全うできなかったことから、清談の士に軽んじられた。著書と文章が世に行われた。子の諼は司徒右長史となったが牛を殺した罪で廃黜され東陽内史となった。帰任の際、五官(属官)が餞別に一万銭を送ろうとしたが百銭だけ受け取り「数が多いと、劉寵(廉潔な官吏の故事)よりも恥ずかしい」と答えた。
謝譓――経歴
- 次子の譓はみだりに交際せず門に雑客がなく、時に独り酔い「わが室に入る者はただ清風のみ、我と飲む者はただ明月のみ」と語った。右光禄大夫の位に至った。子の哲、字は頴豫。美しい風儀と物腰で心境も豁達、士君子に重んじられた。梁に仕え広陵太守に至り、侯景の乱の際にはこの地に寓居した。陳に仕え吏部尚書・中書令・侍中・司徒左長史を歴任し没した。諡は康子。
謝顥――経歴
- 顥、字は仁悠。朏の弟である。若くして簡素で静かな性格であった。宋末、豫章太守となり石頭に至って白服のまま烽火楼に登ったため免官されたが、斉高帝に自ら謝罪の弁を述べる際の言辞は清麗で容儀も端雅であり、左右の者は目を奪われた。帝は寛大に処し不問とした。斉の永明初年、文学の士を高く選抜する中で竟陵王の友となり、吏部郎を歴任し簡潔で秀でた評価を得た。北中郎長史として没した。
謝瀹([卄/瀹])――経歴
- 顥の弟の瀹、字は儀潔。七歳のとき王景文がこれを非凡と認め、宋孝武帝に言上して衆人の中で召見させたところ、瀹の立ち居振る舞いは落ち着き応対も的確で帝は喜び公主を娶らせる詔を出した。景和帝が敗れるとこの話は立ち消えとなったが、僕射褚彦回が娘を嫁がせ厚く支度させた。性格は聡明で、かつて劉悛と酒を飲んだ際、互いに譲り合っていると悛が「謝莊の子(瀹)が飲めぬはずがない」と言うと、瀹は「もし人物さえ相応しければ千日でも酔い続けられる」と答え、悛は恥じ入り言葉を失った。
- 斉に仕え中書侍郎に累遷し、衛軍王儉に長史として招かれ厚遇された。のちに吏部尚書を拝した。明帝が鬱林王を廃す際、兵を率いて宮に入ると左右の者は驚いて瀹に報告に走ったが、瀹は客と囲碁をしており、駒を打つたびに「その手には意味がある」とだけ言い、局が終わってからようやく戻り自室に横たわり、外の事を問わなかった。明帝即位後も瀹は病と称して公事を知らぬふりをし、蕭諶が兵を連れて起こそうとすると、瀹は「天下の事は公卿が処理すれば十分だ、死は天命に過ぎない、これしきで恐れることはない」と言った。
- のちの功臣を集めた宴で酒杯が回されると、尚書令王晏らは席を立ったが瀹だけは起立せず「陛下が天命を受けられたのに、王晏はこれを自らの功と思っているようだ、酒を献じても報われまい」と言った。上は大笑いしこれを取りなした。宴が終わると晏は瀹を車に呼び懐柔しようとしたが、瀹はまた真顔で「あなたの巣窟はどこにあるのか」と言った。晏が初めて班剣(帯刀の護衛)を得た際、瀹は「わが家は太傅(謝安)でさえわずか六人しか賜らなかったのに、あなたはどうして一挙に二十も得たのか」と言い、晏はこれを深く憚り、江祏に「あの上の者(瀹)は御しがたい」と語った。加えて領右軍将軍を兼ねた。
- 兄の朏が呉興にあった際、公事の上奏が遅れると瀹が朏に代わり上奏文を作成したが、これが朏本人の筆跡でないことが帝に知られたものの問責は見送られた。永泰元年(498年)、太子詹事のまま没し、金紫光禄大夫を追贈され、諡は簡子。かつて朏が呉興に赴く際、瀹は征虜渚で見送り、朏を指して「ここではただ酒を飲むのが相応しい」と言った。瀹は建武年間、常に酔いに耽り、劉瑱・沈昭略と交わり各々数斗を飲み干した。斉武帝が王儉に「今、五言詩を作れる者は誰か」と問うと、儉は「朏は父の才を受け継ぎ、江淹も見所がある」と答えた。武帝が禅霊寺を建立する際、瀹に碑文を撰させた。瀹の子が覧である。
謝覧――経歴
- 覧、字は景滌。斉の銭唐公主を娶り駙馬都尉を拝した。梁武帝が建鄴を平定した際、朝士の王亮・王瑩らは会釈のみであったが、それ以外は皆拝礼した。覧はその時二十余歳で、太子舎人としてやはり長揖するのみであった。物腰は落ち着き視線も聡明で、武帝は彼を見送りながら徐勉に「芳蘭が身体全体から香るような人だ、謝莊もまさにこのようであったろう」と言い、以後厚遇された。天監元年(502年)、中書侍郎として吏部の事を掌り、まもなく実際の任に就いた。かつて侍座で命により侍中王暕と詩を贈答した際、その文は巧みで再作しても命に叶い、帝は「双文既後進、二少実名家、豈伊爾棟隆、信乃俱国華」の詩を賜った。
- 侍中となり、酒宴を好んだため散騎常侍蕭琛との宴席での言葉の応酬が有司に上奏される事態となったが、武帝は覧の若さを考慮し中権長史に出すに留めた。のちに吏部尚書を拝し、呉興太守として出された。中書舍人の黄睦之の一族が烏程に居を構え専横をきわめ、前任の太守は皆屈していたが、覧が着任前に睦之の弟が出迎えようとした際、覧はその船を追い返し、通行を取り次いだ役人を杖罰した。以後、睦之の一族は門を閉ざして出なくなった。郡境ではしばしば強盗が起き東道の民の患いとなっていたが、覧が着任すると粛然とした。以前、斉の明帝と覧の父瀹、徐孝嗣が呉興太守として名太守と称されたが、覧はその代を歴任した太守を弔い敬った。覧は昔、新安にあった際に蓄財に励んだが、この頃には廉潔と評され、当時の人は王述になぞらえた。在官のまま没し、中書令を追贈された。
謝舉――経歴
- 覧の弟の舉、字は言揚。幼くして学を好み覧と並び称された。十四歳で沈約に詩を贈りその賞賛を得た。弱冠で父の喪に遭い痩せ衰えるほど哀しんだ。喪が明けると太常博士となり、兄の覧とともに元会に参列した際、江淹は一目見て二人を敬服し「これぞ二龍を並べて長途を馭す者」と評した。太子家令・掌管記となり昭明太子に深く重んじられた。秘書監の任昉が新安郡に出る際、舉は詩を贈り「詎念耋嗟人、方深老夫託」の句で心情を託した。
- 梁武帝がかつて覧に舉のことを尋ねると、覧は「識見や技芸は臣を遥かに超えていますが、酒だけは臣に及びません」と答え、帝は大いに喜んだ。まもなく安成郡守に除されたが、母が郡で没したためこれを辞退し赴任しなかった。左戸尚書を歴任し吏部尚書を掌った。舉の祖父の莊、父の瀹、兄の覧はいずれもこの職を経ており、前代にも比類が少なかった。舉は特に玄理と仏教義理に長け、晋陵郡にあった頃も常に義学の僧と経論を講じ合い、徴士の何胤は虎丘山からわざわざこれに参加した。以前、北方から南下した盧廣は儒学に優れ国子博士となり、学問所で講義を開いた際、僕射徐勉以下皆が集まったが、舉が座に加わりたびたび廣の説を論破し、その理路は的確で廣も深く感服し、自ら用いていた麈尾の斑竹杖と滑石の書格を贈って敬意を表した。
- 侍中を加えられ尚書右僕射に遷った。大同2年(536年)、呉郡太守に出された。以前、何敬容が呉郡にあり良い治績を挙げ「何呉郡」と称されたが、舉の治績もこれに匹敵すると言われた。かつて徴君の何胤を招いて中論を講じてもらおうとした際、胤は巾褐(隠士の服)のまま南門から入るのを憚り東囷から入ったため、詩を贈り「虎丘山賦」を作らせその寺に題した。都に召還され侍中・太子詹事・翊左将軍となった。舉の父瀹も斉の代にこの官で終わったが、舉はたびたび上表して他職への改任を願ったが許されなかった。のちに尚書僕射・侍中・将軍のまま昇進した。舉は要職を歴任しながらも時政に関与しようとせず、保身と寵愛の保持に努め特に発言することもなかった。病を理由に免職を願うと、帝はいつも休暇を与え、良薬を処方させるなど厚遇された。
- 侯景が来降した際、帝は朝臣に諮問し、舉ら多くの朝士は拒絶すべきと進言したが、帝は朱异の言を容れて受け入れた。景がやがて趙・魏で功を立てるだろうという期待からであったが、舉らは以後何も言えなくなった。太清2年(548年)、尚書令に遷り内台で没した。上は「舉は歴任した官職が多いのみならず、人倫の儀表として長く重んじられていた。無念にも生前に授けられなかった官があるので、侍中・衛将軍・開府儀同三司を追贈すべきだ」と述べた。
- 舉の邸内には山斎があり寺として捨てられ、泉石の美はほとんど自然そのもののようであった。臨川・始興の諸王もしばしば訪れた。邵陵王綸が婁湖に園を築き広く酒宴を催した際、酒後に集まった賓客の冠を裂いて唾壺に投げ込んでも誰も咎めなかったが、舉が宴に招かれ王が舉の頭巾を取ろうとした際、舉は顔色を正し「冠冕を裂き毀つことは下官には承服いたしかねます」と言い衣を払って退出した。王が幾度も呼び戻そうとしても戻らず、王は恥じ入った様子を見せた。舉は玄妙な境地に心を寄せ特に仏理に長け、浄名経に自ら注釈を施し常に講説した。文集二十巻がある。子が嘏である。
謝嘏――経歴
- 嘏、字は含茂。風采清雅で文章を能くした。梁に仕え太子中庶子・建安太守となった。侯景の乱で広州へ赴き蕭勃を頼ったが、勃が敗れると周廸のもとに身を寄せ、のち陳寳應に従った。寳應が平定されると自ら朝廷に出頭し、侍中・中書令・都官尚書を歴任し没した。諡は光子。文集が世に行われた。子の儼は侍中・御史中丞・太常卿。伷は尚書僕射に至った。
謝僑――経歴
- 舉の兄の子の僑、字は國美。父の玄大は梁に仕え侍中に至った。僑は元来富貴の家柄であったが、かつて一朝の食事にも事欠くほど困窮し、子が班史(史書)を質入れして食を買おうとしたが、僑は「餓死しようともこんなことで食を得るわけにはいかぬ」と答えた。太清元年(547年)に没した。文集十巻。長子は禕。僑の弟の札、字は世高もまた文史に博く通じ、湘東王諮議の位に至ったが僑より先に没した。
史論
- 論じて言う。易に「積善の家には必ず余慶あり」とある。弘微はその立ち居振る舞いにより人倫の模範となり美名を後世に伝えた。その一族が代を重ねて衰えなかったのは、まさに拠り所があったからだろう。敬沖(朏)は三代(宋・斉・梁)の移り変わりをたびたび経験しながらも隠遁の志を貫くことはなく、貞固の道においても、また官にある時の身の処し方でも財貨への執着を免れなかった。しかし身を屈めて謙虚さを装うことで晩年の名声を保った。古人のいう「処士(隠者を装う者)は虚しい評判を盗む」とはこのことをいうのだろう。