南史卷十九 列傳第九 謝靈運

謝靈運(385–433年)は謝玄の孫で謝方明の従子。文才は江左随一とされ「謝康楽」と称された。永嘉太守・臨川内史などを歴任したが奔放な言動で朝廷と衝突を繰り返し、最終的に謀反の疑いで広州に流された末、棄市された。

年表(2件)

経歴

  • 謝靈運は安西将軍奕の曾孫であり、方明の従子である。祖父の玄は晋の車騎将軍。父の瑍は生まれつき知恵に乏しく秘書郎で早世した。靈運は幼くして聡明で、玄はこれを非凡として親しい者に「私は瑍を生んだのに、瑍の子はなぜ私に及ばぬということがあろうか」と語った。若くして学を好み群書を博く覧、文章の美は顔延之と並び江左第一とされたが、奔放さでは延之を超え、緻密さでは劣った。従叔祖の混に特に愛され、康楽公の爵位を継ぎ、国公の例により員外散騎侍郎に除せられたが応じず、琅邪王の大司馬行参軍となった。性格は豪奢で車馬衣服も鮮やかで、多くの物品の形式を改め、世人はこれを「謝康楽」と称した。秘書丞に累遷したが事に連座し免ぜられた。
  • 宋武帝が長安にあった頃、靈運は世子中軍諮議・黄門侍郎となり使者として慰労に赴いた。帝が彭城で「撰征賦」を作った際、相国従事中郎・世子左衛率となったが、門生を勝手に殺した罪で免官された。宋が禅譲を受けると公爵から侯爵に降格され、再び太子左衛率となった。靈運はたびたび礼度を逸脱したが、朝廷は彼を文才の士として扱い実務を任せなかった。自らは才能をもって権要に参与すべきと考えていたため、認められぬことに常に憤りを抱いた。
  • 廬陵王義真は若くして文籍を好み靈運と特に親しかったが、少帝即位で権力が大臣に移ると、靈運は異論を煽り執政を非難した。司徒徐羨之らはこれを憂え、永嘉太守に出した。郡には名山水があり靈運はもとより愛好していたが、赴任してもその境遇に満足せず、自由に遊覧し県を巡ること十日から一ヶ月にも及び、政務に関心を持たなかった。至る所で詩を詠じて心情を表した。在郡一年で病と称して辞職した。従弟の晦・曜・弘微らが手紙で引き止めたが従わなかった。
  • 靈運の父祖はともに始寧県に葬られ、故宅と別荘もあったため会稽に籍を移し旧業を修めた。山を傍らに江を帯びる幽居の美を極め、隠士の王弘之・孔淳之らと放埒に交わり、隠棲の志を抱いた。一篇の詩ができるたびに都下の貴賤を問わず競って書写し、一晩で士庶に広まった。「山居賦」を作り自ら注を付してその事を記した。文帝が徐羨之らを誅すと秘書監に召したが、再度の召しにも応じなかったため、光禄大夫范泰に書を送らせ奨励したところようやく出仕し、秘閣の書の遺漏を整理させ、また「晋書」を撰させたがおおよその条目を立てたのみで完成しなかった。まもなく侍中に遷り厚遇された。靈運は詩書ともに卓絶し、文が完成するたびに自ら書写した。文帝は彼を「二宝」と称した。もともと名門の子として時政に参与するつもりであったが、この頃はただ文義をもって遇されるだけであった。
  • 帝の宴に侍って談論するのみで、王曇首・王華・殷景仁らの名声・地位は元来彼を超えていなかったのに並んで用いられたことに不平を持ち、しばしば病と称して朝参しなかった。ひたすら池を掘り木を植え竹果を育てて公役を勝手に使い、期限も守らなかった。郭外へ百六七十里も出て十日以上戻らないこともあり、報告も休暇の届けもしなかった。帝は大臣を辱めたくなかったため、それとなく自ら身を処するよう促した。靈運は表を奉り病を理由に休暇を賜り東へ帰り、旅立ちに際し上書して河北討伐を勧めながら自らは遊興に耽り昼夜宴を続けた。御史中丞傅隆に上奏され免官された。これは元嘉5年(428年)のことである。
  • 靈運は東に戻ると族弟の恵連、東海の何長瑜、頴川の荀雍、太山の羊璿之と文章を賞し合い山沢に遊び、当時の人は彼らを「四友」と呼んだ。恵連は幼くして奇才があったが、父の方明には認められなかった。靈運が永嘉から始寧に戻った際、方明が会稽にあり、靈運が方明を訪ねて恵連に会い大いに評価し、靈運は元来他人を推奨することが少ないのに恵連だけは特に重んじ刎頸の交わりを結んだ。当時何長瑜が恵連に読書を教えており郡内にいたが、靈運はこれもまた比類なき才として方明に「阿連(恵連)の才能はこれほどなのに、あなたは普通の子供として扱っている。長瑜は今の仲宣(王粲)と言うべきなのに下客の食を与えている。あなたが賢者を礼遇できないなら、長瑜は私が引き取るべきだ」と言い、長瑜を連れて去った。
  • 荀雍、字は道雍、員外散騎郎に至った。璿之、字は曜璠、臨川内史となり司空竟陵王誕に厚遇されたが、誕が敗れると連座して誅せられた。長瑜の才は恵連に次ぎ、荀雍・璿之はこれに及ばなかった。臨川王義慶が文士を招集した際、長瑜は国侍郎から平西記室参軍まで昇り、かつて江陵で一族の何朂に韻文の書簡を送り義慶の州府の僚佐を序した。「陸展は白髪を染め側室の歓心を買おうとしたが、若さは戻らず、そのうち白髪がまた出てきた」というような句が五六句続き、軽薄な若者たちがこれを敷衍して人々を題材にし辛辣な言葉を加えたため、その文が流行し義慶は激怒し文帝に訴え、広州所轄の曽城令に左遷された。義慶が薨じると朝士は皆邸を訪れ哀悼したが、何朂は袁淑に「長瑜はもう戻ってよいだろう」と言うと、淑は「国の喪が新しいのに流された人を思うべきではない」と答えた。廬陵王紹が尋陽に鎮すると、長瑜は南中郎行参軍・掌書記の任にあたったが、板橋に至った際、暴風に遭い溺死した。
  • 靈運は祖父の代からの資産で生活が甚だ豊かで、奴僕は多く義故の門生も数百人にのぼり、山を穿ち湖を浚う工事を絶えず行った。山々を巡るときは必ず幽峻な地を選び、岩壁が幾重にも重なっても登り尽くさぬことはなかった。木履を用い山に登る時は前歯を、下る時は後歯を外した。かつて始寧の南山から木を伐り開いた道が臨海まで続き、従者は数百人に及んだ。臨海太守王琇はこれを見て驚き山賊かと思ったが、靈運と知って安堵した。琇を誘って共に進もうとしたが琇は応じず、靈運は琇に詩を贈り「邦君難地嶮、旅客易山行」と詠んだ。会稽でも同様に多くの人を驚かせた。
  • 会稽の太守孟顗は仏教に篤く帰依していたが靈運に軽んじられ、かつて靈運は顗に「悟りを得るには慧業(智慧の功徳)の力量が要る。丈人(あなた)は死後に天に生まれても靈運より先だが、成仏はきっと靈運より後だ」と言い、顗はこの言葉を深く恨んだ。また王弘之らと千秋亭で酒を飲み裸で大声を上げたところ、顗はこれに堪えられず訴えを起こそうとした。靈運は怒り「自分が大声を出しただけで、痴人には何の関係もない」と言った。
  • 会稽の東郭に回踵湖があり、靈運はこれを埋めて田にすることを求めた。文帝は州郡に湖を検分させたが、湖は城郭に近く水産物の産地であったため百姓は惜しみ、顗も固く反対し与えなかった。回踵湖を得られなかった靈運は始寧の休崲湖でも田にすることを求めたが顗はまた固執した。靈運は「顗の考えは民の利益のためではなく、湖を埋め立てれば多くの生命が害されると懸念しているだけだ」と語り、顗と隙を生じた。靈運は横暴なふるまいのため異心があると上表され、兵を発して自衛したことも報告された。靈運は自ら闕に赴き自分の経緯を陳べた表を奉り、文帝は彼が誣告されたと知り罪に問わなかったが、再び東へ帰すことはせず臨川内史とした。任地でも永嘉と同様に遊興に耽り、有司に糾弾された。
  • 司徒が随州従事の鄭望生を遣わして靈運を捕らえさせようとすると、靈運は兵を興して逃走し、ついに謀反の意志を抱くに至った。詩を作り「韓亡子房奮、秦帝魯連恥、本自江海人、忠義感君子」と詠じた。討伐され捕らえられ廷尉に送られると、廷尉は死刑を論定したが、帝はその才を惜しみ免官のみで済ませようとした。彭城王義康が固く反対し、赦すべきでないとしたため、詔で「謝玄の功績はいくらか汲むべきなので後嗣には及ばないが」と死一等を減じ広州に流された。
  • のちに秦郡の府将宋斉受が使者として涂口に至り、桃墟村を経る途中で七人の男が路上に集まって話しているのを見て怪しみ、郡県に報告し兵を遣わして掩討し捕らえた。その一人は姓を趙、名を欽といい、同村の薛道雙が以前靈運と共に事をなしたことがあり、道雙が同村の成国を通じて欽に、靈運が処罰を受け広州に流された際に金を与え弓矢刀楯を買わせ、道雙に郷里の壮健な若者を集めさせ三江口で靈運を奪還するよう促し、成功すれば恩賞は同等とすると言い伝えたことが判明した。そこで一味は集結したが謝を得られず、帰路で飢饉のため道々で略奪を行った。有司がこれを上奏し、文帝は詔をもって靈運を広州で棄市とした。臨死の際に「龔勝無余生、李業有終尽、嵆公理既迫、霍生命亦殞」と詩を詠んだ。龔勝・李業は前の詩と同じく子房・魯連の意である。元嘉10年(433年)、享年49。著した文章は世に伝わった。

孟顗――経歴

  • 孟顗、字は彦重。平昌安邱の人。衛将軍昶の弟である。昶と顗はともに風姿が美しく、世人はこれを「双珠」と呼んだ。昶が貴盛を極めた時期、顗は官への招聘に応じず、昶の死後、侍中・僕射・太子詹事・散騎常侍・左光禄大夫を歴任した。かつて徐羨之を訪ね関洛の事を語った際、顗は「劉穆之が終えて以降は継ぐ者がいない」と嘆いた。王弘もその場にいて不満げに「昔、魏朝は張郃を非常に重んじたと言うが、彼が死んで何が興廃に関わったか」と言い、顗は不快であったが、居合わせた賓客が笑って場を和ませた。のちに会稽太守として没した。靈運の子の鳳は靈運の連座で嶺南に流され早世した。

謝超宗・謝才卿・謝幾卿――経歴

  • 鳳の子の超宗は父鳳に従い嶺南にあり、元嘉末に帰ることができた。慧休道人と交わり、学を好み文才があり評判を得た。新安王子鸞の国常侍に選ばれた。子鸞の生母殷淑儀が没した際、超宗が誄を作り奏上すると、帝は大いに感嘆し謝莊に「超宗にはまさに鳳毛の才がある、靈運の再来だ」と語った。当時、右衛将軍劉道隆が御座に侍っていて「君に珍しいものがあると聞くが見せてもらえるか」と超宗に言うと、超宗は「懸けられた空の部屋に何の珍しいものがあろうか」と答えた。道隆は武人で無学であったため、まさに父の名(鳳)に触れる言葉であることに気づかず「至尊のそばで君に鳳毛があると言われていた」と続けたため、超宗は裸足で内に戻った。道隆は「毛」を探すよう求め、闇の中で待っても得られず立ち去った。
  • 泰始年間、尚書殿中郎となり、三年、都令史の駱宰が孝廉の格付けについて五問すべて上とし四三を中、二を下、一を落第と議した際、超宗は異論を唱えたが詔は宰の議に従った。斉高帝が領軍であった頃、その才を愛した。衛将軍袁粲がこれを聞いて高帝に「超宗は明朗で語るに値する」と言い、長史・臨淮太守に迎えられた。粲が誅せられると、高帝は超宗を義興太守とした。昇明2年(478年)、公事に連座し免官され、東府の門を自ら訪れると、その日は風寒く、高帝は一座に「この客が来ると人は服を着ずとも暖まる」と言った。超宗は着座し数杯飲むと言葉が奔放になったが、高帝はこれを喜んだ。
  • 斉が禅譲を受けると黄門郎となり、有司が郊廟歌を撰するよう上奏すると、帝は勅で司徒褚彦回・侍中謝朏・散騎侍郎孔珪・太学博士王咺之・総明学士劉融・何法図・何曇秀ら計十人に命じたが、超宗の作った辞だけが単独で採用された。
  • 超宗は才を恃み酒に任せて多く人を軽んじた。当直中に酔って上に召され語る中で北方の事に及んだ際「虜の動きはもう二十年になる、仏が出てきてもどうしようもない」と言い、儀礼を失したとして南郡王中軍司馬に出された。人が「朝命を承ったというがどの府ですか」と問うと、超宗は不満げに「司馬か司驢か分からない、もし驢の府なら政はまさに司驢というべきだ」と答えたため有司に怨望として上奏され禁錮十年を科された。
  • のちに司徒褚彦回が湘州刺史王僧虔を送る際、閣道が壊れ水に落ち、僕射王儉は驚いて跣足で車から降りた。超宗は手を叩いて「落水三公(褚彦回)、墜車僕射(王儉)」と笑い、彦回が水浸しで狼藉な姿で上がると、超宗は僧虔の船にいたまま声を張り上げ「天道はあるものだ、天も容れず地も受けず、河伯に投げ渡そうにも河伯すら受けまい」と言った。彦回は怒り「寒士め、無礼な」と言うと、超宗は「袁・劉を売り富貴を得られなかったから寒士になっただけだ」と返した。以後、この種の言い争いが次第に朝野に広まった。
  • 武帝即位後、国史の編纂を掌らせ竟陵王の征北諮議・領記室としたが、超宗はますます不満を募らせた。超宗は子のために張敬兒の娘を嫁に迎えたため帝は疑いを抱き、敬兒が誅せられると超宗は丹陽尹李安人に「往年は韓信を殺し、今年は彭越を殺す、君は何を企むか」と言った。安人はこれをつぶさに帝に伝え、帝は日頃から超宗の傲慢さを積もらせていたため、兼中丞袁彖に上奏させ超宗を廷尉に付すよう求めた。武帝はこの上奏を許可したが、彖の言辞に不徹底なところがあるとして左丞王逡之に、彖の上奏は法を軽んじ寛大に過ぎると奏させ、彖を免官・禁錮十年とした。超宗は廷尉に下されると一夜で髪が白くなり、詔により越嶲へ流された。豫章に至った時、上は豫章内史虞悰に賜死を命じたが遺体を傷つけぬよう命じた。
  • 翌年、超宗の門生王永先がまた超宗の子の才卿に死罪二十余条を告発したが、武帝はその虚偽を疑い才卿を廷尉に付して弁明させ、事実無根と判明し赦された。永先は獄中で自害した。
  • 才卿の弟の幾卿は聡明弁舌で「神童」と呼ばれた。超宗が越嶲に流された際、家族の同行は許されなかったが、幾卿は八歳で父を新亭で見送る際、悲しみに耐えかね川に身を投げた。超宗は水夫数人に救出させ、長く水面に浮かんでようやく岸に着き、耳目口鼻から水を数斗吐き、十余日でようやく口を利けるようになった。父の喪では哀しみが礼を超えるほどであった。十二歳で国子生に補せられ、斉の文恵太子が自ら試問し「幾卿は玄理に長じている、経義について尋ねてみよ」と王儉に命じ、儉が問うと幾卿は淀みなく答え、文恵太子は大いに称賛した。儉は人に「謝超宗は死んでいない」と語った。
  • 成長すると博学で文才があり、斉に仕え太尉晋安王主簿となった。梁の天監年間、尚書三公郎から治書御史となった。旧来、郎官からこの職に転じる者は世に「南奔」と呼ばれた。幾卿は志を得ないことが多く、しばしば病と称して台の事務を顧みなかった。尚書左丞に累遷した。故実に詳しく僕射徐勉が疑問があるたびに彼に尋ねた。性格は洒脱で気の向くまま振る舞い朝廷の規律に拘らなかった。かつて楽游苑の宴に招かれ酔えないまま帰る途中、道端の酒屋に立ち寄り幔幕を垂らして車を止め、前導の三人の騎士と対飲した。見物人が堵のごとく集まったが幾卿は平然としていた。のちに省署にいる夜、犢鼻褌(下着)姿で門生と閣道で酒を飲み酔って有司と呼びかけたことが糾弾され免官された。
  • 普通6年(525年)、西昌侯藻に諸軍を統率させ北侵させる詔が下ると、幾卿は従軍を願い出て藻の軍師長史に抜擢された。出発に際し僕射徐勉との別れの席で勉が「淮肥の役では以前の謝(玄)が奇功を立てたが、今度の謝はどうだろうか」と言うと、幾卿はすかさず「すでに今の徐(勉)は前の徐(羨之か)に勝ると見えます、後の謝が前の謝に劣るいわれがありましょうか」と答え、勉は黙り込んだ。軍は渦陽に至って退敗し、幾卿は連座して免官された。
  • 白楊石井の宅に住み、朝中の交友は酒を持って訪ね、客は常に満座であった。当時、左丞の庾仲容もまた免官され帰郷しており、二人は意気投合し放埒に振る舞い、露天の車に乗って郊野を巡り、酔えば鐸を振り挽歌を歌い世評を意に介さなかった。湘東王繹が荊州の鎮にあった頃、書を送って慰勉した。のちに太子率更令となり、放逸で礼容に構わず、道理に外れる者には遠慮なく罵倒し、退けば何も語らなかった。左丞・僕射省に遷った際、公卿を集めた議論の場でも幾卿は外から戻り宿酔のまま高枕して傍らに人がいないかのようであった。また閣省で裸で酒に耽り、酔って小便を漏らし令史を濡らして南司に弾劾されたが、幾卿は気にも留めなかった。左光禄長史に転じて没した。文集が世に行われた。
  • 幾卿は素行に慎みがなかったが、家門への情は篤く、兄の才卿が早世すると子の藻を幼くして養い、藻が成長し清官を歴任できたのはすべて幾卿の養育と指導の力によるものであった。

史論

  • 論じて言う。謝晦は佐命の功をもって顧命の重責を負い、深い憂いのうちに昏君を廃し賢主を立てることを社稷のための大計とした。これは大きな志であった。ただ廬陵王の死は主上の命によるものではなく、名門の家の覆没は臣道に背くものであった。博陸(霍光)が慎んだこととは事情が異なる。加えて身は上流に処し兵権を総攬し、外をもって内を制そうとした、これが君主の長く堪えられるものだろうか。もし徐羨之・傅亮が滅びず檀道済が外にあって四人の権勢が拮抗していたなら、劉氏の危機は累卵よりも甚だしかっただろう。この点から罰を論じれば、どうして無実の誅殺と言えようか。宣遠(謝瞻)の言動が寒心とされたのは、まさにその萌芽を見抜いていたと言えよう。
  • しかし謝氏は晋以来、雅道を代々伝えてきた。景恒(澹)・景仁(裕)は徳と質朴で美名を伝え、景懋(洽)・景先(述)は節義で誉れを流し、方明は行いの規範を示し、玄暉(朓)は文才の妙を示し、それぞれ一時代を代表するに値し、まさに「徳の家門」と呼ぶべきである。靈運は才名において江左随一であったが、放埒を止めず自ら滅びを招いた。人にはそれぞれ得手不得手があるという言葉が、これで真実だと知られる。惜しむべきことである。