南史卷十七 列傳第七 劉懷肅

劉懷肅

  • 劉懐肅は彭城の人、宋武帝の従母兄(母方の従兄)。家は貧しかったが躬耕しつつ学を好み、晋の費県令を務めた。武帝の挙兵を聞くと県を棄てて馳せ参じた。義熙元年、輔国将軍・淮南歴陽二郡太守。二年、劉毅の撫軍司馬を兼ね、義挙の功で東興県侯に封じられた。
  • その冬、桓石綏・司馬国璠が胡桃山に集まり賊を為すと討ち破った。江淮間の群蛮や桓氏の残党の乱にも自ら討伐を願い出たが、出征中に命令に背いたとして劉毅の上表により免官された。義熙三年に卒し、左将軍を追贈された。子がなく、弟の懐慎の子蔚祖が嗣いで江夏内史となった。蔚祖の卒後、子の道存が嗣ぎ太尉江夏王義恭の諮議参軍となったが、孝武帝の元凶討伐の際に義軍へ奔り、景和年間には義恭の太宰従事中郎となり、義恭の敗死に連座して獄死した。

劉懐敬

  • 懐肅の次弟、懐敬は口下手で才能に乏しかった。武帝誕生の際、生母が亡くなり、孝皇帝(武帝の父)は貧しく乳母を雇えず子を諦めかけたが、懐敬の母(武帝の従母)が子の懐敬の乳を断って武帝に乳を与えたという。武帝は旧恩により懐敬をたびたび寵任し会稽太守に任じた際、「あまりに早い昇進では」との声に「亡き姨(叔母)の恩は重く忘れられぬ」と答えたという。のち尚書・金紫光禄大夫を歴任した。
  • 子の真道は銭塘令のとき、元嘉十三年の東土の飢饉で揚州中従事史沈演之の巡察により余杭令劉道錫とともに善政を称され穀千斛を賜り、歩兵校尉に進んだ。十四年、梁南秦二州刺史。十八年、氐帥楊難当の漢中侵攻を討ち破ったが侵寇が止まぬため、文帝は龍驤将軍裴方明に禁兵五千を授け真道の指揮下に置いた。十九年、方明とともに武興・彭に進んで勝ち、真道は建威将軍・雍州刺史、方明は輔国将軍・梁南秦二州刺史となった。また戦死した晋寿太守姜道盛を追贈した(道盛は古文尚書の注で知られる)。真道・方明はともに仇池を破った際に金銀財貨を不正に断り取り、また難当の良馬を隠匿した罪で下獄死した。

劉懐慎

  • 懐敬の弟、懐慎は若くして謹慎で実直、宋武帝の征討に従軍し徐州刺史に至り、政治は厳しく境内が引き締まった。広固・盧循平定の功で南城県男。義熙十二年、武帝の北伐で中領軍・征虜将軍として輦轂を宿衛したが、府内の殺人事件に連座して免官された。それでも恭恪の姿勢は変わらず、自分より下位の者の門でも下車して礼を尽くしたという。永初元年、佐命の功で侯に進み、五兵尚書・散騎常侍・光禄大夫。景平元年、護軍将軍。俸禄・下賜品は宗族に分け与え家に余財なく卒し、肅侯と諡された。
  • 子の徳願は大明初年、遊撃将軍・領石頭戍事のとき商人韓仏智からの賄賂で下獄・奪爵。のち秦郡太守。粗野な性で孝武帝に戯弄され、殷貴妃の墓前で哀哭を演じて手厚い賞を得た逸話、医術者羊志が同様に哀哭して問われた際「その日は自分の愛妾のために泣いたのだ」と滑稽に答えた逸話が伝わる。豫州刺史に進み、御車の妙技(狭い柱間を全速力で駆け抜ける)を孝武帝に披露して寵愛された。永光年間、廷尉のとき柳元景と親しく、元景の敗死に連座して誅殺された。
  • 懐慎の庶長子栄祖は若くして騎射を武帝に認められ、盧循攻撃の折、武帝が発砲禁止を命じた中で憤って禁を破り賊を射倒す働きを見せた。以後戦功を重ね、司馬休之討伐で彭城内史徐逵之が敗死した際、諸将が怯む中を進んで戦い甲を授けられて陥陣、負傷を負った。武帝の北伐では朱超石とともに半城で魏軍を大破し、武帝から「寡兵で衆を制し堅城を落とす、古の名将もこれに及ぶまい」と称された。永初中、輔国将軍・平城の功で都郷侯。財を軽んじ義を重んじ将士を撫したが性は偏狭で士君子の心を失うところがあったという。
  • 懐慎の弟の懐黙は江夏内史。子は孫登、武陵内史。孫登の子の亮は刀盾に巧みで軍功により順陽県侯、梁益二州刺史を歴任し廉潔だったため俸禄をすべて官に返還、明帝も褒賞した。梁州で不老長生を求め武当山の道士孫懐道に仙薬を合成させ服用して死んだが、殯の際遺体は生けるがごとく柔らかかったという。剛侯と諡された。孫登の弟の道隆は前廃帝景和年間、右衛将軍・永昌県侯として腹心の任にあたったが、泰始年間に賜死された(建安王休仁伝に詳しい)。

劉粹

  • 劉粹、字は道冲。沛郡蕭県の人。京口にあって州従事を初任、武帝の建鄴平定・広固討伐に従って西安県五等侯に封じられ、中軍諮議参軍に進んだ。盧循が京口に迫った際、まだ四歳だった文帝の鎮守を武帝の命で補佐した。江夏相のとき、族兄の劉毅が武帝に二心を抱いても粹は加担せず忠を尽くし、武帝が毅討伐を謀った際も粹は夏口にありながらむしろ武帝の信を篤くした。平定後、灄県男に封じられ、永初元年に佐命の功で建安県侯に改封された。
  • 文帝即位後は雍州刺史・都督。元嘉三年の謝晦討伐に際し、晦とかねて親しく子の劉曠之が晦の参軍だったため文帝が疑ったが、王弘が「粹は私心なき人だ、憂う必要はない」と弁じ、粹は南討の命を一途に果たした。文帝はこれを嘉し、晦も曠之を害さず送り返した。粹はまもなく卒し、曠之が嗣いだ。

劉道濟(粹の弟)

  • 粹の弟の道済は益州刺史。長史費謙らが搾取に走り政治を害した。晋末に晋の宗室と自称した司馬飛龍が仇池へ逃げていたが、元嘉九年、道済の統治が乱れたのに乗じ仇池から綿竹へ入り乱を起こし、道済は軍を遣わしてこれを斬った。
  • 先に道済が帛氐奴・梁顕を参軍・督護に用いたが、費謙が遠方の商人を圧迫し百姓の不満が募る中、氐奴らはこれに乗じて党を集め、趙広らは「司馬殿下(飛龍)がまだ陽泉山中にいる」と偽って蜀の新旧の民を扇動、道人程道養を飛龍に見立て、趙広は龍興と改名して蜀王・車騎大将軍・益梁二州牧を号し泰始元年(私年号)の建元と百官を備えた。道養の弟道助は驃騎将軍・長沙王として涪城に鎮し、広は自ら鎮軍将軍、帛氐奴は征虜将軍、梁顕は征北将軍を称して成都を包囲した。
  • 道済は中兵参軍裴方明を遣わしてたびたび破ったが、元嘉十年正月、賊が再び大挙して成都に迫る中で道済は陣中で卒した。方明らは秘して遺体を後齋に埋め、道済の筆跡に似せた書状で応対を続け、母妻にも知らせなかった。二月、道養が郊天の儀式を行おうとしたところを方明が急襲して大破。臨川王義慶の巴東太守周籍之の援軍と合流して広漢の郫川を平定、道助(司馬龍伸を名乗っていた)を捕らえて斬り、涪・蜀は平定された。なお張尋が陰平を破って道養と合流し郪山に逃れるなど残党の跳梁は続き、寧朔将軍蕭汪之の討伐で元嘉十四年にようやく平定された。趙広・張尋らは建鄴に遷されたが、十六年に国山令司馬敬琳と再び謀反して誅殺された。

劉損(族弟)

  • 粹の族弟の劉損、字は子騫。衛将軍劉毅の従父弟。父の鎮之(字は仲徳)は毅の権勢のもと自ら京口に閑居し出仕を求めず、常に毅に「お前は必ず我が家を滅ぼすだろう」と語り、毅も畏れ憚って質素な装いで鎮之の門を訪ねたという。左光禄大夫に召されても応じず家で没した。
  • 損は元嘉年間、呉郡太守として昌門を経て太伯廟に至り、廟の荒廃を見て「清らかな遺風は今もなお偲ばれるのに、この頽廃はどうしたことか」と嘆き修築させた。卒して太常を追贈された。同郡の劉伯龍は貧しく、尚書左丞・少府・武陵太守を歴任しても窮乏し、家で墓所の造営を企てた折に幽鬼に嘲笑され「貧窮は定めとはいえ鬼にまで笑われるとは」と嘆いて取りやめた逸話が伝わる。

孫處

  • 孫処、字は季高。会稽永興の人。武帝の孫恩討伐に従い、建鄴平定の功で新番県五等侯。盧循の乱で武帝が「この賊を打ち破るには卿しかいない、根拠地を絶て」と命じ、季高は海路番禺を襲って抜いた。循の父の嘏や長史孫建之、司馬虞尫夫らが軽舟で始興へ逃れると、振武将軍沈田子らを分遣して嶺南諸郡を平定させた。循は左里で敗走後広州に戻ろうとしたが季高がこれを破った。義熙七年に卒し南海太守・侯官県侯を追贈され、九年に武帝の上表で交州刺史を追贈された。

蒯恩

  • 蒯恩、字は道恩。蘭陵承の人。武帝の孫恩討伐の折、県から馬草刈りに徴発され、常人の倍以上を負い「弓三石を引く大丈夫がなぜ馬の世話ばかりせねばならぬのか」と嘆いたと武帝が聞き、兵器を与えて自らの征伐に従わせた。胆力人に勝り常に先陣を務め、婁県の戦いで右目に矢傷を負いながらも京城平定・建鄴平定に軍功があり都郷侯に封じられた。
  • 広固討伐、盧循撃破、劉藩に従う徐道覆討伐、王鎮悪との江陵急襲、朱齢石の蜀討伐、司馬休之討伐と各戦に従軍し、生涯凡そ百余戦、重い傷を幾度も負った。武帝は前後の功をまとめて新寧県男に封じた。武帝の北伐に際しては世子(のちの少帝)の侍衛に留められ、朝士との交際を命じられたが、恩はいっそう謙譲を旨とし、人と語る際も常に官位で自称し「鄙人」と自らを呼んだという。世子の開府にも従い再び司馬に進んだが、のち関中に入って桂陽公義真の迎えに赴き、赫連勃勃に没した。爵位は孫の代まで伝わったが子なく国除となった。

向靖

  • 向靖、字は奉仁、小字は弥。河内山陽の人。名が武帝の祖父の諱と同じであったため小字で通称された。武帝と旧知の仲で、京城平定に建武軍事として参じ、建鄴平定の功で山陽県五等侯。広固討伐・盧循討伐でも功を挙げ安南県男。司馬休之討伐・関中征討にも起用され、武帝受命後は佐命の功で曲江県侯に封じられ、太子左衛率・散騎常侍を経て官にあるまま卒した。彌(靖)は倹約な人柄で邸宅や田畑・商いの財産を持たなかったと時人に称された。
  • 子の植は嗣いだが過失多く母の教えに従わなかったため爵を奪われ、次弟の楨が改めて封を継いだが、これも人を殺して国除となった。楨の弟の柳(字は玄季)は学問と義に優れ、太尉袁淑・司空徐湛之・東揚州刺史顔竣と親交があった。竣が顕貴となっても柳はかつての親しさのままに接し、順陽の范璩から「名位が異なれば礼の作法も違う、昔のままの態度は改めるべきだ」と諭されたが、柳は「私と士遜(竣)の心の契りは久しい、勢利で人を判断できようか」と応じたという。柳は南康郡太守のとき南郡王義宣の乱に連座して建康の獄に繋がれ、たびたび竣に助命を求めたが、孝武帝が竣にその件を持ち出しても竣は助けず、柳は処刑された。范璩(字は伯玉)は平北将軍范汪の曾孫で、淮南太守を務めた。

劉鍾

  • 劉鍾、字は世之。彭城の人。幼くして孤となり、同郷の中山太守劉回のもとに身を寄せ、貧賤の中でも慷慨の志を抱いていた。武帝の征伐に尽力し、義旗が挙がると武帝は「彭城の同郷で義に赴く者は皆劉主簿(鍾)に頼れ」と述べ郡主簿とし、鍾はこれを機に義兵の一隊を立てて連戦連勝した。
  • 桓謙が東陵に、卞範之が覆舟山西に屯した際、武帝が伏兵の有無を疑い、周囲を見渡して鍾に「この山下に伏兵があるはずだ、卿が探ってこい」と命じ、鍾が進むと果たして伏兵があり、これを敗走させた。のち南斉国内史・安丘県五等侯に封じられ、父祖・親族十柩の改葬を願い出て武帝から厚い援助を受けた。広固討伐で孟龍符が陣没した際、鍾は自ら陣中に入りその遺骸を収めて戻った。盧循が建鄴に迫った際は栅を死守して重傷を負いながらも賊の侵入を防ぎ、循の南走後は劉藩に従い徐道覆を追撃して斬った。
  • 朱齢石の蜀討伐に前鋒として従い、成都まで二百里の地点で自らの脚疾のため齢石が兵を休めて機を伺おうとしたところ、鍾は「今こそ好機だ。あらかじめ大軍が内水に向かうと言いふらしたため譙道福は涪城を離れられず、今我らが急に至れば蜀人は既に胆を潰している。賊が険を守って戦わぬのは持久できぬからだ。この機を逃せば我らが虜となろう」と説き、齢石はこれに従い翌日二城を陥として成都を平定した。広固討伐の功で永新県男に封じられ、義熙十二年の北伐では留守を務め、右衛将軍に累進、元熙元年に卒した。爵位は孫の代まで伝わり斉の受禅で除かれた。

虞丘進

  • 虞丘進、字は緣之。東海郯の人。若くして謝玄に従い苻堅討伐で功を挙げ関内侯に封じられた。のち宋武帝の孫恩討伐に従い戦功を重ね、建鄴平定の功で燕国内史・龍川県五等侯。盧循が都に迫った際、孟昶らが天子を奉じて江を渡って避難すべきと議したが、進は廷議でこれに真っ向から反対し、武帝から高く評価され鄱陽太守に任じられた。のち劉藩に従い徐道覆を斬り、義熙九年の前後の功で望蔡県男。永初二年、太子右衛率まで累進して卒し、司馬休之討伐の功をあわせて子爵に進められた。爵位は曾孫の代まで伝わり斉の受禅で除かれた。

孟懷玉(弟龍符)

  • 孟懐玉は平昌安丘の人。代々京口に住んだ。宋武帝の孫恩東伐に建武司馬として従い、義旗に参じて京口・建鄴平定の功で鄱陽県五等侯。盧循が都に迫った際は戦功で中書諮議参軍となり、循平定の後に陽豊県男に封じられ、江州刺史・南中郎将のとき官にあるまま卒した。子なく国除。
  • 弟の龍符は驍勇果敢で早くから武帝に認められ、軍功で平昌県五等子に封じられた。広固討伐に車騎将軍・龍驤将軍加官・広川太守として従い、勝ちに乗じて追撃中に包囲され戦死した。青州刺史・臨沅県男を追贈された。

胡藩

  • 胡藩、字は道序。豫章南昌の人。幼くして父を喪い、喪に服す様子が周囲の心を打ち、太守韓伯は藩の叔父の尚書少広に「この甥は義烈をもって名を成すだろう」と語った。州府の招聘に応じず、二人の弟の元服・婚姻を終えてから郗恢の征虜軍事に参じた。当時、殷仲堪が荊州刺史であり、藩の外兄羅企生がその参軍だった。藩は江陵で企生を訪ね、「桓玄の意図は尋常でない、あなたの重んじすぎる態度は将来の禍のもとになる」と仲堪への諫言を勧めたが、仲堪は聞き入れず、藩は退いて企生に「戈を逆さに人に授けるようなもの、早く去らねば必ず大禍が及ぶ」と告げた。企生は聞かず、のちに玄が仲堪を襲い企生はその禍に殉じた。
  • 藩は玄の後軍・太尉大将軍相国の軍事を歴任したが、宋武帝の挙兵で玄が敗走する際、藩は玄の馬を引き止めて「羽林の射手なお八百人あり、みな義において西方の人。今これを見捨てて帰るというなら二度と得られませんぞ」と諫めたが、玄は鞭で空を指すのみで応じず軍は散り散りになった。蕪湖で玄に追いつくと玄は喜び、側近の張須無に「郷州(江陵)にはなお多くの士がいるが、今また王修(かつての忠臣)を見る思いだ」と語った。桑落での敗戦では藩の艦が焼かれ、甲を着けたまま三十歩ほど水中を潜行してようやく岸に上がったという。
  • 武帝は藩がかねて殷氏(仲堪)に直言し、玄にも節義を尽くしたと聞いて鎮軍軍事に召した。慕容超討伐に従軍した際、超軍が臨朐城外に屯し城の守りが手薄と見て、武帝に「韓信が趙を破った故事のように、まず城を落として旗幟を斬るべき」と献策、檀韶とともに潜行してただちに城を落とし、超軍は動揺して広固に籠った。包囲が長引く中、夜に鵞鳥ほどの大きさの蒼黒い鳥が武帝の帳内に飛び込み、皆が不吉と見たが藩は「蒼黒は胡虜の色、胡虜が我が方に帰する大吉の兆し」と祝し、翌朝城は陥落した。
  • 盧循討伐の左里の戦いでも功を挙げ呉平県五等子に封じられ、鄱陽太守を経て劉毅討伐に従軍。毅が荊州赴任に際し建鄴に立ち寄らず墓参もせず帰った折、武帝が倪塘で会うと藩は毅の殺害を進言し、「公は劉衛軍(毅)を臣下と思っておいでか」と問い、武帝が「では卿はどう見るか」と返すと、藩は「豁達大度・百万の衆を率いる功名は天下の望みに適い毅もそれを認めていよう。しかし記伝を渉猟し弁舌を誇り、名士たちが群がり集まるのを見れば、公の下に立つ気は決してないでしょう」と述べた。武帝は「毅とはともに興復の功があり、その罪がまだ表れぬうちに図るべきではない」と応じたが、のちに藩へ「あの倪塘での進言に従っていれば、今のような事態はなかった」と語ったという。
  • 司馬休之討伐でも参軍として従い、彭城内史徐逵之が敗死すると武帝は怒って馬頭岸から江を渡ろうとしたが、対岸は絶壁で登れず、藩に上るよう命じた。藩がためらうと武帝は怒って処刑を命じたが、藩は「進んで死ぬまで」と刀の先を岸に突き立てて足指を掛けながら登り、続く者が増え、激戦の末に敵を破った。
  • 関中征討では太尉軍事を統べ別働隊として河東に至ったが、暴風で輜重の艦が北岸に流され魏軍に奪われた。藩は憤慨し十二騎で単身魏軍五、六百に突入、得意の弓で十数人を射倒し魏軍は退いて奪われた物資を取り戻した。またのち超石とともに半城で魏の数万騎の包囲を受けたが、五千に満たぬ兵で力戦しこれを大破した。武帝が彭城に戻った際は相国軍事を兼ね、司馬休之・広固の功と併せて陽山県男に封じられた。元嘉年間、太子左衛率のとき卒し壮侯と諡された。
  • 子の多くは法度を守らず、十四子の遵世は孔煕先の逆謀に連座したが、文帝は藩の功臣たることを慮って事を表沙汰にせず、江州において別件を理由に処刑させた。十六子の誕世、十七子の茂世はのちに庶人となった義康を奉じようとしたが、交州刺史檀和之が豫章に至ってこれを討ち平らげた。

劉康祖(伯父簡之)

  • 劉康祖は彭城呂の人。父の劉䖍之(虔之)は財を軽んじ施しを好み、江夏相のとき魯宗之の子魯軌に襲われ殺され、梁秦二州刺史・新康県男を追贈された。康祖は膂力抜群で弓馬に長じ、若い頃は遊蕩・賭博にふけり、法を犯しては郡県の追及を屋根を越え塀を跳んで逃れ、人家に踏み込んだ際に囲まれても包囲を突破して脱し、追う者もいなかった。夜半に京口から半夜で戻り、翌朝は門前で要職者に挨拶して見せ、建康で追及の書が来ても京口滞在中の証人が立ち事なきを得たという逸話が伝わる。たびたび糾弾されたが、文帝は勲臣の子として寛大に扱い、後に爵位を襲い員外郎を拝したが、再び賭博の罪で免官となった。
  • 孝武帝が豫州刺史として歴陽に鎮した際、征虜中兵参軍に任じられて以後は身を慎み、南平王劉鑠の安蛮府司馬となった。元嘉二十七年、魏太武帝が汝南を包囲すると、文帝は諸軍を救援に送り、康祖は前駆を統べて新蔡に進み魏軍を破って懸瓠まで四十里に迫り、太武帝は営を焼いて退いた。左軍将軍に転じた。
  • 文帝が翌年大挙北伐を図った際、康祖は「準備の時期が遅い、来年まで待つべき」と進言したが容れられなかった。その秋、蕭斌・王玄謨・沈慶之らが黄河へ進む一方、康祖は豫州軍を率いて許洛方面に出たが、玄謨らが敗れて帰還。寿陽にいた南平王劉鑠が魏軍に包囲されるのを恐れ康祖に急ぎ戻るよう命じたところ、寿陽まで数十里の地点で魏の永昌王率いる長安の兵八万騎に遭遇した。康祖は八千の兵で車営を組んで防戦、魏軍は四面から攻め寄せ、康祖は三隊に分けて交代しつつ奮戦し、将士は一人で百人に当たる働きを見せたが、魏軍の死者が半数を超えるほどの激戦の末に矢が頭に当たって戦死し、全軍は潰滅、生還者はわずか数十人だった。魏は康祖の首を彭城で晒し、益州刺史を追贈され壮と諡された。

劉簡之(伯父)とその子孫

  • 康祖の伯父の簡之は志と器量があり宋武帝に認められていた。武帝が興復を謀り人材を集める中、簡之の家を二度訪ねたことがあり、来客の意図を悟った簡之は父の劉䖍之に「劉下邳(武帝)が再び来られた、必ず何か意図がある、お前が試しに会ってみよ」と告げた。䖍之が訪ねた頃には武帝はすでに京口を制しており、䖍之は直ちに義に投じ、簡之はこれを聞いて耕牛を屠って人々を集め馳せ参じた。太尉諮議参軍を務めた。簡之の弟の謙之は学を好み『晋紀』二十巻を撰し、広州刺史・太中大夫を務めた。
  • 簡之の子の道産は初め無錫令から爵(晋安県五等侯)を襲い、元嘉三年以降、梁南秦二州刺史・都督として恵政を行い、のち雍州刺史・寧蛮校尉・都督兼襄陽太守として善政を敷き、蛮夷も帰順し百姓は安んじた(襄陽の楽歌はこの頃に起こったという)。官にあるまま卒し襄侯と諡され、西土の蛮族までもが喪服をまとい沔口まで見送ったと伝わる。
  • 長子の延孫は孝武帝初年、侍中・東昌県侯を経て尚書右僕射、大明元年には金紫光禄大夫・太子詹事、さらに南徐州刺史となった。もともと武帝の遺詔で京口は都に近い要地のため宗室・近戚以外は治めさせない定めであり、彭城に住む劉氏は帝室の綏輿里、左将軍劉懐肅の安上里、豫州刺史劉懐武の叢亭里の三里に分かれ、延孫の呂県居住とあわせ計四流に分かれていたが、いずれも楚元王を祖としながら昭穆の序列を持たなかった。延孫は帝室と本来同族ではなかったため、司空竟陵王劉誕が徐州にあってこの人事を深く忌避し延孫を広陵へ移そうとしたが、朝廷は延孫の腹心を京口に残して誕を牽制する一方、南徐州を延孫に授けて宗室と系譜上結び付け諸王と親族の序を持たせた。
  • 大明三年、南兖州刺史竟陵王誕が召命に応じず反すると、延孫は中兵参軍杜幼文を討伐に急派、誕はすでに城を閉じて自守していたが、誕の使者劉公泰が招きの書を持参すると延孫は公泰を斬りその首を建鄴に送った。さらに幼文を沈慶之の指揮下に付けて再派遣した。大明五年、朝廷は「旧来の京口守備は近親に委ねる定めであり、今は防備の必要も薄れた、いずれ幼い皇子に授けるべきもの」として延孫を侍中・尚書左僕射・領護軍に召し戻したが、延孫は病により拝命できずに卒し、司徒を追贈され班剣二十人を賜り、有司は忠穆と諡すべきと奏したが後に文穆と改められた。子の質が嗣いだ。

史論

  • 劉敬宣は宋武帝と幼少より恩義を結び、興復の当初こそ迎え入れの機を逸したが、深い盟約は長く違うことがなかった。しかし隆盛な任に至ってなお、人物が世を去ればその功を飾る記述もなく、恩礼に厚薄の差があったのはどうしてであろうか。
  • 劉懐肅・劉懐慎・劉粹・孫処・蒯恩・向靖・劉鍾・虞丘進・孟懐玉・孟龍符・胡藩らは、あるいは旧誼によって心力を一つにし、あるいは時運に乗じてその力量を発揮し、いずれも塵芥の中から身を起こして自ら封侯に至った。『詩経』に「徳あれば必ず報いあり」とあるのはまさにこの通りである。
  • 劉康祖の一門は興隆の主に仕え、若くして封邑を受け、戦場での責務に命を賭して臨んだ。劉道産は漢水南方で十年余にわたり治績を積み、その遺風はなお称えるに足る。この二人の事跡を見れば、異なる形ながら並び立つ美と言えよう。延孫は隆盛な名声と寵愛の中で慎重に選ばれ地位を授かり、腹心の任から宗臣の重きに至ったが、それもまた行き過ぎであったといえよう。