南史卷十七 列傳第七 劉敬宣

劉敬宣(字萬寿、?–415年)は彭城の人。父劉牢之の麾下で桓玄に対する挙兵に関わったが牢之の自縊後は諸国を流浪、のち宋武帝に帰順して武帝の腹心の将となった。蜀討伐の失敗はあったが慕容超討伐・盧循撃退などで功を挙げ、晩年は参軍司馬道賜の謀反に連座した部下に殺害された。

年表(7件)

出自と桓玄への抵抗

  • 劉敬宣、字は萬寿。彭城の人。父の劉牢之は晋の鎮北将軍。八歳で母を喪い昼夜泣き続け、周囲を驚かせた。輔国将軍桓序が蕪湖に鎮した際、四月八日の灌仏の日に、敬宣が頭上の金の鏡を外して母の像に灌ぐようにして泣き崩れた逸話が伝わり、序は牢之に「この子は家の孝子たるのみならず、必ず国の忠臣となろう」と語った。
  • 王恭の前軍参軍を初任とし、のち会稽王世子司馬元顕の征虜軍事を兼ねた。隆安二年、王恭が司馬尚之討伐を名目に京口で挙兵、牢之は恭の前軍司馬として先鋒を務め、敬宣を遣わして恭を襲い破った。元顕は敬宣を後将軍諮議参軍とした。
  • 隆安三年、孫恩の乱に牢之が自ら東討を上表すると、敬宣は騎兵で南山沿いに敵の背後を突く策を献じ、呉の賊は馬を恐れ挟撃を懼れて大敗、会稽平定に功があり後軍従事中郎に遷った。宋武帝が度々賊を破って声望を高める中、敬宣は深く結んだ。元顕が驃騎将軍に進むと敬宣も府に従ったが、元顕が驕り高ぶる中、宴席で軽い受け答えをして元顕の不興を買った。
  • 元興元年、牢之が桓玄討伐に向かう一方、元顕は昼夜酒色に耽った。牢之は道子の昏愚と元顕の淫虐を見て、玄平定後の混乱を懸念し、玄からの誘いに応じて執政を除いたのちに玄の隙を突こうと考えた。敬宣は「玄の威望が固まれば図りがたくなる」と諫めたが、牢之は「今日玄を討つのは容易いが、平定後に驃騎(元顕)をどう扱えばよいのか」と応じず、敬宣を使者として玄への降伏を伝えさせた。
  • 玄は志を得ると元顕を殺し道子を廃し、牢之を会稽太守とした。牢之と敬宣は玄襲撃を謀ったが決行前日に大霧で門が遅く開き、敬宣が期日に至らなかったため牢之は謀の露見を疑って広陵へ逃げようとし、敬宣が京口へ家族を迎えに戻っている間に、牢之は敬宣が玄に捕らえられたと誤解して縊死した。

流浪と武帝への帰順

  • 敬宣は喪に服したのち司馬休之・高雅之らとともに洛陽へ逃れ、長安を往来して姚興に救援を求めたが果たせず、慕容徳のもとへ奔った。天文に明るい敬宣は「凡土」を身につける夢を見て「凡は桓の字に通じる、桓氏が滅べば私は故郷に帰れるだろう」と喜び、青州の大姓と結んで徳の打倒を謀り司馬休之を主に推した。時に徳の司空劉軌が重用されており、髙雅之が軌を誘ったが計画が露見し、軌を殺して逃亡した。
  • 折しも宋武帝が京口を平定し、敬宣を名指しで招く書が届いたため馳せ帰り、武岡県男に封じられ、のち江州刺史を拝した。劉毅の少壮の頃を評して「この人は外は寛大に見えて内は猜疑深く、自らを誇って人を見下す性分。もし機会を得れば必ず人を陵駕して禍を招くだろう」と語った逸話が伝わる。毅はこれを伝え聞き深く恨んだという。
  • 安帝の反正後、武帝の寵任は他に並ぶ者がないほど厚く、娘の嫁入りには銭三百万・雑綵千匹が下賜された。武帝がまさに功を立てさせようとする中、義熙三年、敬宣は蜀討伐に遣わされた。博士周祗は「道は遠く輸送は困難、毛修之の家の仇も晴らせぬまま、蜀討伐で命を落とすのは国家の重い損失」と諫めたが聞き入れられず、敬宣は仮節・監征蜀諸軍事として出征。黄武まで進んだが成都まで五百里を残して食糧が尽き疫病にも遭い撤退、有司の奏により免官となった。
  • 義熙五年、武帝の慕容超討伐に中軍諮議参軍として従い、兖州刺史劉藩とともに超軍を大破し広固を包囲、たびたび策を献じた。盧循が建鄴に迫った際は鮮卑の獣班突騎を率いて陣を整え、循軍を退けた。のち南討に従い左衛将軍となった。

晩年と最期

  • 敬宣は寛厚で士人を厚遇し、伎芸・弓馬・音律いずれにも通じていた。尚書僕射謝混は才地に優れ交友を選ぶ人物だったが敬宣とは礼を尽くして交わり、「孔文挙(孔融)が礼を尽くした太史子義に、天下の誰がこれを非とするだろうか」と評された。
  • かつて蜀から帰還した際、劉毅は重罰に処そうとしたが、武帝はすでに厚く任用しており「私情で公の道理を害してはならない」と述べた。毅はなお「かつての誼で軽々しく信じてはならぬ、光武帝の龐萌への後悔、曹操の張邈への失策を思うべき」と忠告した。毅が荊州に出鎮する際「卿を長史に迎えたいが、南蛮の輔けをする気はあるか」と敬宣に尋ね、敬宣は恐れて武帝に相談したが、武帝は「私が健在な限り案ずるな」と笑って答えたという。
  • のち冀州刺史を領した。武帝が劉毅を西討した際、豫州刺史諸葛長人(諸葛黎民)が敬宣に「盤龍(劉毅)は横暴で異端の者は皆滅ぼされる、富貴を共にしよう」と誘う書を送ったが、敬宣は「福が過ぎれば災いを生むことを常に恐れている」と拒み、書をそのまま武帝に呈した。武帝は王誕に「阿寿(敬宣)は私を裏切らぬ男だ」と語ったという。
  • 十一年、右軍将軍に進んだ。武帝が司馬休之討伐で西征中、晋の宗室司馬道賜が敬宣の参軍でありながら密かに辟閭道秀・左右の小将王猛子らと謀反、道賜は自ら斉王と号して広固に拠り休之に呼応しようとした。王猛子が敬宣の刀を奪って敬宣を殺害、文武の佐吏がただちに道賜・道秀・猛子を討ち斬った。事変の前、宴席の最中に空から芒屩(草鞋)一隻が敬宣の食膳に落ち、すでに人に履かれ壊れかけていたという凶兆の逸話が伝わる。まもなく凶事が起き、武帝は訃報に接し哭泣して深く哀しんだという。子の光祖が嗣ぎ、宋の受禅で国は除かれた。