南史卷十六 列傳第六 朱齡石
朱齡石(字伯児、?–418年)は沛郡沛県の人。代々の将家に生まれ、宋武帝の信任を得て益州刺史・征蜀元帥として譙縦の蜀を平定した名将。晋末の混乱の中、長安鎮守を委ねられたが、義真の東帰に伴う混乱で長安を放棄し、赫連勃勃軍に敗れて殺された。
出自と若年
- 朱齢石、字は伯児。沛郡沛県の人。代々将家。伯父の朱憲・朱斌はともに西中郎将袁真の将佐だったが、桓温が寿陽で袁真を討った際、憲兄弟が桓温に内通していたことが露見して殺された。父の朱綽は温のもとに逃れたが、寿陽平定後に袁真がすでに死んでいたため棺を暴いて屍を辱めた。温は怒って斬ろうとしたが、弟の桓沖の取りなしで助命され、綽は沖に父のごとく仕えた。冲が薨じると綽は血を吐いて死んだ。
- 齢石は若くして武を好み、些細な作法にこだわらなかった。舅の蔣氏の家で、紙を的にして刀子を投げ百発百中させて舅を畏怖させた逸話や、舅の頭の大瘤を眠っている隙にひそかに切り取り、舅が死んでしまったという逸話が伝わる。
蜀平定と最期
- 武帝の京城攻略に建武参軍として従軍。江乗の戦いを前に、代々桓氏の恩を受けた身として兵刃を交えることを拒み、軍の後方に置かれることを願い出て許された。のち鎮軍参軍・武康令に転じ、専横する姚係祖を偽って参軍に取り立てた上で誅殺し、その一族も討って地域を鎮めた。
- 中兵に転じ、武幹と吏才を兼ね備えていたため武帝の信任が厚かった。盧循平定の功で西陽太守、義熙九年に益州刺史として蜀討伐の元帥となった。
- 武帝との密議で、劉敬宣の失敗を踏まえ、外水から成都へ主力を進めつつ内水へ疑兵を出す策を立てた。密封の書状を「白帝に至って開け」と託し、白帝で開封して全軍に外水攻略を命じた。譙縦は内水の防備を固めていたため計は当たり、彭模で侯暉・譙詵らを斬り、広漢で譙道福の別働隊を破った。譙縦は涪城へ逃れたが、巴西の王志に斬られて送られ、道福も捕らえられ軍門で斬られた。
- 当初、齢石の資望はまだ軽いとして元帥起用に異論が多かったが、武帝は聞き入れず、精鋭を割いてこれに配した。敬皇后の弟臧熹もその指揮下で戦い、勝利により衆望は服した。豊城侯に封じられた。
- 義熙十四年、桂陽公義真が召還されると齢石は雍州刺史・都督関中諸軍事となり長安に赴いたが、義真出発後の混乱の中、青泥での義真敗走に伴い長安を放棄して逃走し、殺された。爵位は孫の代まで伝わり、斉の受禅で絶えた。
朱超石(齢石の弟)
- 果敢俊敏で、将家の出でありながら兄弟ともに文書にも通じた。桓謙の衛将軍時代に行参軍として仕えたが、のちに武帝の徐州主簿となり桓謙の遺骸を丁重に弔った。
- 義熙十二年の北伐で前鋒。黄河北岸を行軍中、渡河の途中で流された兵が魏軍に殺される事態が続いたため、武帝は白直隊主丁旿に七百人・車百乗を率いさせ、両端を黄河で挟む「却月陣」を築かせ、白い長毦(旗印)を掲げさせた。魏軍がこれを見て動かずにいたところへ、超石は大弩百張・小兵二十人増員の彭排(盾)付き車を率いて合流。
- 魏軍が包囲を狭めると、はじめ弱弓小箭で応戦して見せ、太武帝配下の南平公長孫嵩の騎兵三万が肉薄すると百弩を一斉に放った。矢数で制しきれぬと見るや、あらかじめ用意していた大槌と千余張の矟(ほこ)を三、四尺に断ち切り、槌で打ち込む戦法で一矟につき三、四人を貫いて魏軍を潰走させた。
- 大軍が蒲坂を落とすのに功があり、河東太守を経て中書侍郎、興平県五等侯に封じられた。関中の乱に際し慰労のため派遣され、兄齢石とともに赫連勃勃に捕らえられ殺された。
毛修之――桓玄への仕官から入魏まで
- 毛修之、字は敬文。滎陽陽武の人。祖父の武生、伯父の毛璩はともに益州刺史。父の毛瑾は梁秦二州刺史。
- 桓玄に仕え屯騎校尉となり、玄に従って西へ逃れたが、玄が漢川へ入ろうとするのを蜀へ誘導し、馮遷が玄を枚洄洲で斬るのを助けた功があった。宋武帝は修之を鎮軍諮議とし、のち右衛将軍に進めた。玄殺害の謀に加え父・伯がともに蜀にいたため、武帝は外の助けとして厚遇した。
- 父瑾が譙縦に殺されると、武帝は修之を龍驤将軍として援軍を送ろうとしたが、益州刺史鮑陋が進撃を拒否。修之の訴えで武帝は劉敬宣に蜀討伐を命じたが失敗に終わった。譙縦はこれを機に修之の父・伯の遺骨や親族の柩を返還した。
- 劉毅の江陵鎮守時、衛軍司馬・南郡太守として仕えたが、密かに武帝と結んでおり、毅の敗死後も赦された。
- 朱齢石の蜀討伐に従軍を望んだが、武帝は「修之が蜀に入れば誅殺が多くなり、蜀人も毛氏に恨みを抱いて必死に抗戦するだろう」として許さなかった。修之は鬼神を信じず、行く先々で祠廟を焼いたと伝わる(蒋山廟の良馬を奪った例も記される)。
- 相国右司馬・行司州事として洛陽を守り、城壁修築を武帝から称賛され褒美(当時の評価二千万相当)を受けた。王鎮悪の死後は安西司馬となったが、桂陽公義真の敗戦に伴い赫連勃勃に捕らえられ、赫連昌の滅亡後は魏に入った。
毛修之――魏における晩年
- 洛陽時代から嵩高山の道士寇謙之に仕えており、謙之が魏太武帝の信任を得ていたため修之も死を免れた。羊羹を作って魏の尚書に献じたところ絶品と評され、太武帝に献上して大いに喜ばれ太官令となった。以後寵愛を受け尚書・光禄大夫、南郡公に封じられ、太官令はそのまま兼務した。
- のち朱修之が魏に捕らえられて厚遇を受けた際、朱修之に南朝の権力者を尋ね「殷景仁」と聞くと、「かつて殷は若く、自分は帰国できぬ日々、家の消息を尋ねる気になれなかった」と長く嘆息する場面が伝わる。朱修之が消息を告げ、「賢子の元矯はよく身を処している」と伝えると、修之は言葉を失い涙した。
- 修之は北人が南朝へ帰る際に魏の侵攻を勧め、南朝の礼制を教えていたとの風説があり、文帝(宋)はこれを疑い責めたが、のち帰還した朱修之が事情を弁明して疑いは解けた。修之は魏で多くの妻妾・子女を持ち、そのまま魏で没した。
孫惠素(毛修之の孫)
- 斉に仕えて少府卿。母の喪に篤い孝を尽くし、喪明けの後も月ごとに母の遺した帷帳に向かって哭泣した。
- 吏才があり事務に長けたが厳酷でもあった。銅官の碧青千二百斤を敕命で購入し(供御の画用、費用六十五万銭)、不正利得の讒言を受けて武帝の怒りに触れ、尚書に評価をやり直させたところ二十八万銭余高いと評され、有司の奏上により誅殺された。死後、家には財産が何も残っていなかったため、武帝は無実だったと知り深く悔いた。
傅𢎞之
- 傅弘之、字は仲度。北地泥陽の人。傅氏はもと霊州に属したが漢末に土地を失い馮翊の泥陽・富平二県に寄寓し、霊州廃止後は泥陽に属した。晋武帝太康三年に霊州県が再興されると傅氏も霊州に復したが、高祖の傅祗(晋の司徒、のち霊州公に封)は本県への封を望まず、一門は泥陽に留まった。曽祖の傅暢は秘書丞で石勒の虜囚となって没し、子の傅洪は晋穆帝永和年間、石氏の乱に乗じ江を渡った。洪の子の梁州刺史傅歆(一に韶とも)が弘之の父である。
- 若くして大志を抱き、太尉行参軍を経て武帝の北伐に従軍、扶風太守沈田子らとともに武関から侵入した。乗馬に巧みで、姚泓の馳道で妙技を披露し羌胡の観衆数千が感嘆したという。桂陽公義真の雍州中従事史となり、義真の東帰の際、赫連勃勃の追撃を青泥で受けて大敗、弘之は甲冑を身に着け奮戦するも陥没して屈せず、厳寒の中で裸にされてなお罵り続け、殺された。
朱修之――蜀出身の系譜から魏への抑留
- 朱修之、字は恭祖。義陽平氏の人。曽祖の朱燾は晋の平西将軍、祖父の序は豫州刺史、父の諶は益州刺史。州主簿を経て累進し司徒従事中郎。文帝(宋)は「卿の曾祖はかつて王導の丞相中丞であった。卿は今また王弘の中丞である。祖先に恥じぬというべきだ」と語った。
- 到彦之の北伐に従い、彦之が黄河南から引き返す中、修之は滑台に留まり魏将安頡に包囲され、糧が尽き将士は鼠を食う篭城戦となった。母は包囲が長引くのを悲しみ、ある朝乳汁が驚くほど出て「私は年老いて再び乳が出るはずがない。今こうなるのは、この子がきっと死ぬからだ」と号泣したという。果たしてその日、魏は滑台を陥落させ修之を捕虜とした。
- 太武帝はその節義を称え、雲中鎮将に任じ宗室の女を妻とした。修之は密かに南帰を図ったが、妻はその素振りに気づき「あなたに留まる気がないのは分かる、なぜ私に打ち明けてくれないのか、決して裏切らない」と涙ながらに訴えた。修之はその義に感じ入りつつも計画は明かさなかった。
- 太武帝の馮弘討伐に従軍した際、同じく捕虜だった邢懐明・徐卓らとともに南人の蜂起を企てたが露見して徐卓は誅殺され、修之と懐明は恐れて馮弘のもとへ逃げたが冷遇された。ちょうど宋の使者が到着した折、修之の名望を知る伝詔(使者)が拝礼したのを見て、辺境の人々も彼を礼遇するようになった。
- 魏がたびたび黄龍(馮弘)を攻めた際、馮弘の救援要請の使者に託して脱出の手引きを頼み、海路で脱出。東莱に至る途中で舵が折れる嵐に遭ったが、鳥の飛来で陸地が近いと知り事なきを得た。
朱修之――帰国後の活躍と人柄
- 帰国後、黄門侍郎を経て孝武帝の初め寧蛮校尉・雍州刺史・都督となり、寛簡な統治で士庶に慕われた。荊州刺史南郡王義宣の反乱に際し、挙兵を促す檄が届くと表向き応じつつ密かに孝武帝へ事情を伝えた。孝武帝はこれを評価し荊州刺史・都督に任じ、義宣にはこれを伏せさせた。
- 義宣は改めて魯秀を雍州刺史として襄陽を攻めさせたが、修之が馬鞍山道を封鎖したため進めず退いた。修之は江陵へ進軍し、竺超が捕らえた義宣を獄中で処刑した。功により南昌県侯に封じられた。
- 清廉な人柄で知られ、諸城からの贈答は一切受けず、蛮人への慰撫のための贈物のみ受けて属官に分け与え、私財を蓄えなかった。離任時には秋毫も犯さず、在任中に用いた官の油・私牛馬の飼料は私費六十万銭で弁済したという。ただし倹約が過ぎ人情に薄い一面もあり、貧しい姉を長らく訪ねなかったが、訪問時に粗末な食事でもてなされ「これは貧しい家のごちそうだ」と喜んで食べた逸話が伝わる。
- のち左戸尚書・領軍将軍。建鄴で牛車の事故により脚を折り、尚書を辞して崇憲太僕に転じ、特進・金紫光禄大夫を加えられた。脚の不自由により付き添いを特別に許され、貞侯と諡された。
王𤣥謨――出自と初期の仕官
- 王玄謨、字は彦徳。太原祁の人。六世祖の王宏は河東太守・緜竹侯だったが、従叔の司徒王允の禍難に連座することを避けて官を棄て北の新興に移り、新興・雁門太守を歴任した。祖父の牢は慕容氏に仕え上谷太守となり、慕容徳に従って青州に移った。父の秀は早世。
- 玄謨は若くして凡人と異なる器を持ち、世父(伯父)の王蕤は「この子の気概は高く明るく、太尉の彦雲(王彪之か)の風がある」と評した。宋武帝が徐州にあった頃、従事史に召され語り合って非凡さを認められた。少帝の末年、荊州刺史謝晦の南蛮行参軍・武寧太守となったが、晦の敗北に際し首謀者でなかったため罪を免れた。
王𤣥謨――北伐の功罪
- 元嘉年間、長沙王劉義欣の鎮軍中兵参軍・汝陰太守。しばしば北伐の策を上奏し、文帝が殷景仁に「玄謨の弁は人に封狼居胥の志を抱かせる」と語ったと伝わる。興安侯劉義賔の輔国司馬・彭城太守を経て、義賔の薨去後、彭城の要衝としての重要性を上表し、皇子の出鎮(孝武帝の出鎮)を実現させた。
- 大挙北伐に際し寧朔将軍・前鋒として黄河を渡り、輔国将軍蕭斌の指揮下、碻磝から滑台を包囲すること二百余日に及んだ。魏太武帝みずから号百万の大軍で救援に来た。玄謨の軍は兵力・武具ともに充実していたが、目に付いたことをすぐ厳罰に処す傾向があり、火矢での焼却提案を退けて損失を惜しみ、車営構築の進言も聞かず、また物資の交易で不当な利を得て民心を失った。太武帝の軍が至ると夜のうちに敗走し、麾下はほとんど散逸した。
- 蕭斌が玄謨を斬ろうとしたが、沈慶之が「太武帝の威は天下を震わせ、精鋭百万を擁する。玄謨ごときが敗れたのは当然で、戦将を自ら弱めるのは得策でない」と諫めて止めた。当初処刑されかけた際、観世音経を千遍唱えれば免れるとの夢告げがあり、目覚めてから唱え続け、刑の直前に停刑の知らせが届いたという霊験譚が伝わる。玄謨は代わりに碻磝の守備に配された。
王𤣥謨――中年以降の栄達
- 江夏王劉義恭が征討都督として碻磝・沙城を放棄させ、玄謨は撤退中に魏軍に追撃されて大破し流矢が腕に当たった。元嘉二十八年正月に歴城に帰還すると、義恭は「敗戦のせいで腕が金創(傷)を負ったのは、まさか金印の徴か」との書を送った。
- 元凶劉劭の弑逆時、玄謨は冀州刺史。孝武帝の逆討伐に際し済南太守垣護之らを派遣して功があり、平定後に徐州刺史・都督に進んだ。南郡王義宣・江州刺史臧質の反乱では朝廷の命により輔国将軍・前鋒として南討、豫州刺史に任ぜられて臧質を大破し、都督・曲江県侯に進んだ。
- 中軍司馬劉沖之の讒言(玄謨が梁山で義宣と通謀したとの訴え)は取り調べで実証されなかったが、孝武帝の疑念は解けず、有司の奏上で戦利品の隠匿と戦功の水増しを咎められ、垣護之とともに免官された。まもなく寧蛮校尉・雍州刺史・都督に復し、僑寓の郡県整理を上言してこれを併合したが、既得権を失う百姓の恨みを買った。
- また九品以上の租を貧富で融通させる案を打ち出したが境内の怨嗟を招き、「玄謨が謀反を企てている」との流言が広まった。時に権勢を握っていた柳元景の弟柳僧景が新城太守として雍州周辺諸郡に発兵を命じ玄謨討伐の動きを見せたが、玄謨は内外を鎮め、孝武帝に事情を上申した。孝武帝は流言と見抜き、主書呉喜公を遣わして慰撫し、「七十の老翁が謀反して何を求めるのか。これで愁眉が開けよう」との書を送った。玄謨は元来厳格で笑わぬ性質のため、世人は「玄謨の眉は開いたことがない」と評していたという。
- のち金紫光禄大夫・太常を経て明堂建設で起部尚書、北選も兼ねた。孝武帝が群臣にあだ名を付けて戯れるのを好んだ時期、玄謨は北人であることから「老傖」と呼ばれ、四時の詩を作られてからかわれた逸話が伝わる。柳元景以下も同様に戯弄の対象となった。
- 徐州刺史・都督のとき北方が飢饉となり、私穀十万斛・牛千頭を放出して救済した。孝武帝崩御に際し顧命の一人となったが、朝政が乱れる中、厳直な性格のため容れられず青冀二州刺史に転じた。前廃帝(少帝)が顔師伯・柳元景らを誅殺する狂乱期には、周囲が辞病を勧めたが「事君の節に背く」として応じず、たびたび諫争し、流涕して刑罰の緩和を訴えたため前廃帝の怒りを買った。
- 明帝の即位後は礼遇が厚くなり、四方の反乱に際し水軍前鋒に任じられたが脚疾のため輿での出入りを許された。のち車騎大将軍・江州刺史として司徒建安王休仁の副将となり赭圻に赴き、諸葛亮の筩袖鎧を賜った。のち光禄大夫・開府儀同三司・領護軍将軍を経て南豫州刺史・都督となり、82歳で薨じた。莊公と諡された。
王𤣥謨の子孫
- 子の深は早世し、深の子の繢が嗣いだ。深の弟の寛は泰始初年、随郡太守のとき四方が反乱する中、父玄謨が建鄴にあったため郡を棄てて帰り、母が賊に捕らえられていたことから西行を願い出て随郡を奪還し母を救った。明帝はこれを嘉し肖像を描かせて上呈させた。斉の永明元年、太常のとき私邸で牛を殺した罪で免官、のち光禄大夫で没した。
- 寛の弟の瞻(字は明遠、一字叔鸞)は気位が高く俗を見下し、人物批評を好んだ。宋の王府参軍のとき劉彦節を訪ね、いきなり榻に上がり「君侯は公孫、僕は公子」と語って親しげに接したが、彦節は表面上応じつつ内心不快だったという。斉の豫章王蕭嶷とは若い頃からの友人で、高論を交わす仲だったが、斉武帝の御前で王景文の兄の愚劣ぶりを問われた際に不敬な発言をし武帝の不興を買った。のち黄門侍郎を経て斉建元初年、永嘉太守として拝謁の礼を欠いたため、武帝の怒りにより誅殺された。高帝(蕭道成)へ内々に伝えられた際「父が辱められれば子は死ぬものだ、瞻が朝廷を軽んじたのは当然の報い」との言葉が記される。
- 玄謨の従弟の玄象は下邳太守。盗掘を好み、地中の完全な棺を見つけては暴いた。ある冢を暴いた際、二十歳ほどの姿の女性の亡骸が現れ、「私は東海王家の娘だ、財を献じるので害さないでほしい」と語ったが、腕の玉釧を奪おうと腕を斬ったところ再び死体に戻ったという怪異譚が伝わる。玄謨がこれを上聞し、玄象は免郡となった。
- 玄載(字は彦休)は玄謨の従弟。父の蕤は東莞太守。宋に仕えて益州刺史。沈攸之の乱で挙兵し斉高帝に帰順して鄂県子に封じられた。斉建元元年、左戸尚書。永明四年、兖州刺史のとき卒し、烈子と諡された。
- 玄邈(字は彦遠、玄載の弟)は宋に仕えて青州刺史。斉高帝が淮陰鎮守のとき宋明帝に疑われ、密かに魏に通じようとした際、高帝から使者を送られたが、長史房叔安が「布衣の士でさえ一飯の恩を忘れぬのに、将軍は方州の重責と君臣の義を捨てるのか」と諫め、玄邈は思いとどまった。使者として派遣された叔安は高帝の謀を建鄴に漏らし、高帝は途上で叔安を捕らえたが「各々その主のために働いたまで」と咎めなかった。玄邈は州に戻る際、高帝に道で迎えられたが厳しい態度で通り過ぎ、宋明帝に高帝の異心を報告したものの、高帝はこれを恨まなかった。
- 昇明年間、高帝は玄邈を驃騎司馬・太山太守に起用し、かつての経緯に恐れる玄邈を変わらず遇した。のち西戎校尉・梁南泰二州刺史、河陽県侯に封じられ、兄弟同時に方伯となった。斉建元初年、亡命者李烏奴の乱が梁部を犯した際、偽って降伏する策で烏奴を油断させ、奇兵で撃破した。延興元年、中護軍。明帝の命で晋安王子懋の殺害を命じられたがこれを固辞、しかし王広之が広陵で安陸王子敬を捕らえる任には応じた。建武年間、護軍で卒し、雍州刺史・壮侯を追贈された。
- 房叔安(字は子仁、清河の人)は高帝即位後、その忠正を評価され益州司馬・寧蜀太守を経て前将軍を拝し、梁州刺史に任じられる前に病没した。高帝は「叔安の節義は古人にも並ぶ、方伯に至らずして終わったのが惜しい」と嘆いた。子の長瑜も義行で知られ、永明年間に州の中従事となった。
史論
- 東晋の南遷以来、長江下流の地に拠り関中は遠く隔たり、内外・表裏が分かれていた。桓温は一代の英傑で晋の鼎を移す志を抱いたが、灞上・枋頭での挫折によりその機を逸した。
- 宋武帝は布衣より起こり、人望のみに頼らず烏合の衆を率いて覇業を興したが、徳がまだ十分でなかったため、難事において奇功を立て天下に威を示すことで人望を集める必要があった。
- 王鎮悪は鋭鋒をもって前進し当たるところ強陣なく、宋の方叔(周の名将)と称するにふさわしい。朱齢石・超石兄弟、毛修之、傅弘之らは、心もとない衆を率い、勇猛な機運に遭って陥没したのは不幸というべきである。修之が滑台を守った困難は疎勒に籠城した故事に等しく、その節義は大国においても重んじられるべきものであり、最終的に道を借りて帰還を果たしたのは首丘の情による。
- 玄謨の「封狼居胥」の志は帝の思いに適うものだったが、天が魏を助ける時勢にあっては、三呉の弱卒で八州の精鋭に当たろうとしたのは無理からぬ敗北であった。沈慶之の言は時勢に通じたものと評すべきである。瞻の傲慢とその末路は悔いても及ばぬもので、斉武帝も後にその死を惜しんだ。玄邈の身の処し方には士君子の風があったといえよう。