南史卷十五 列傳第五 檀道濟
檀道濟(?–435年)は髙平金鄊の人。宋武帝の建義以来の将で、北伐の前鋒として長安平定に功があり、文帝期には北伐の主将として滑台攻防などで武名を高めた宋の名将。功名の大きさを忌まれ、元嘉十二年、彭城王義康の矯詔により拘束・誅殺された。
北伐の名将
- 檀道濟は髙平金鄊の人。幼くして孤児となり喪に礼を尽くし兄姉を助けた。宋武帝の建義に兄韶・祗らと共に参じ、太尉参軍から作唐縣男に封じられた。義熈十二年(416年)武帝の北伐で前鋒を務め、降伏者を京観にすべしとの議論に対し「罪を伐ち民を弔うのは今日の務め」として釈放、これにより中原の人心を得た。
- 長安平定後、琅邪内史。武帝受命に伴い永修縣公。丹陽尹・護軍将軍を歴任、武帝崩御に伴い鎮北将軍・南兖州刺史として出鎮。徐羡之らの廃立謀議に加わることを勧められたが屡々異を唱え、廃立当夜、謝晦が眠れぬ中で道濟は寝入るほど泰然としており、晦はこれに服した。
- 文帝即位後、鼓吹一部・武陵郡公。王𢎞と親交を結び、文帝が羡之ら誅殺の兵を挙げる際、王華の懸念(「道濟は羡之の腹心では」)に対し「道濟は人に従う性、謀に加わらず撫すれば必ず憂いなし」と判断され、実際に誅殺の翌日に到着し、以後は謝晦討伐の前駆を務めた。
- 討伐に先立ち文帝から策を問われた道濟は「私はかつて謝晦と共に北征し十策のうち晦は九を得るほどの智略の持ち主だが、孤軍で決戦する経験はない。私は晦の智を知り、晦は私の勇を知る、必ず戦わずして捕らえよう」と答え、実際に晦軍は道濟の来援を知ると自潰した。
- 元嘉八年(431年)到彦之の北伐が魏に敗れ河南を失った後、道濟は都督征討諸軍事として転戦し滑臺を克した。魏軍と三十余戦し多く勝ったが、軍糧が尽きたとの噂に士卒が動揺すると、夜に籌(竹の計算棒)で沙を量って残りの米を撒く見せかけを行い、翌朝には魏軍の追撃を止めさせた。降者が妄りに斬られる中、道濟は軍の弱勢にもかかわらず甲を着けさせ自ら輿に乗って悠然と囲みを出、魏軍は伏兵を恐れて追わず、全軍を保って帰還した(河南平定はならなかったが名声は大いに高まった)。
- 司空・夀陽鎮守に進んだが、功名の大きさと子らの才気、腹心の多さから朝廷に疑畏された。時人は「司馬仲逹(司馬懿)の再来ではないか」と噂した。文帝の長患いに乗じ、領軍劉湛・彭城王義康は道濟の変を恐れ、元嘉十二年(435年)文帝が篤疾となり魏軍の南伐を機に召し出された道濟は、妻向氏の「功高きは道家の忌むところ、召しは不祥」との予言通り、義康の矯詔により拘束・誅殺された(給事黄門侍郎植・司徒従事中郎粲・太子舎人混・征北主簿承伯・秘書郎中尊ら八人も同時に誅殺)。
- 時人は「可憐白浮鳩、枉殺檀江州」と歌い、死の日に建鄴で地震と白毛の怪異が起きたと伝わる。腹心の薛肜・髙進之も誅された。捕縛された道濟は憤怒して一斛の酒を一気に飲み干し、幘(頭巾)を投げつけて「まさに汝らは万里の長城を自ら壊すのだ」と叫んだという。魏人はこれを聞き「道濟が死んだ以上、呉子輩など恐るるに足らぬ」と頻年南伐する構えを見せた。後に文帝は殷景仁に「道濟の後継となる者は」と問われ「戦功で威名を得た者はいても任に堪える者はいない」と答えられ、李廣の故事を引いて後継の乏しさを嘆いた。元嘉二十七年(450年)魏軍が瓜歩に至った際、文帝は石頭城から「道濟がいればここまでには至らなかったろう」と憂えたという。
韶・珪・祗――兄弟の末路
- 兄韶(字令孫)は桓玄討伐の功で邑丘縣侯、廣固從討の功で琅邪内史、盧循討伐の功で宜陽縣侯、江州刺史を歴任したが罪で免官。嗜酒で貪横であったが、一門が義挙に従い道濟の大功もあって特に寵を受けた。子臻(字係宗)は員外郎。臻の子珪(字伯玉)は沅南令、征北板行参軍として王僧虔に俸禄を求める書簡を送った(一族の困窮を訴えたが容れられず、安成郡丞に用いられるに留まった)。
- 弟祗(字恭叔)は兄韶・弟道濟と共に義挙に参じ廣陵相を歴任。義熈十年(414年)亡命の司馬國璠兄弟が夜に潜入し祗が負傷した際、五鼓を打たせて敵を欺き撃退した。宋国建国後、領軍となったが矜豪で外任を望み、志を得ず病を得て広陵で卒し、諡は威侯。子孫は齊受禅で国除。
史論
- 論じて言う。晋の網紀が緩んで主威が立たず、乱の基が江左の王室を毒したが、宋武帝は一朝にして創業し、乱世の中から治世への道筋を立て直した。これは劉穆之の輔佐あってのことで、その配祭が空しくないことを示す。ただ怙才驕物(才を恃んで人を驕る)は周公旦ですら病とするところであり、劉祥がこれによって身を滅ぼしたのも一つの幸いというべきである。
- 劉秀之の行いは道理に適い、位は虚しく授けられなかったといえる。徐羡之・傅亮の二公は顧命を受けながら、権を握り機を定める地位にあって禍を防ごうとするあまり、桐宮(義真の幽閉)に卒然たる追撃を招いた。淮南王(の逆)が中霧の疾によるものでなかったなら、社稷の存亡のために是非は異なったであろう。徐湛之・徐孝嗣は機に臨んで決断できず、国を敗り身を滅ぼした、これはその報いである。檀道濟は当初録用によって咎を免れたが、晩年は大名に困窮し顛覆に至った。韶・祗の兄弟はよく血脈を伝えたが、木鴈(有用無用の狭間)の間にあったというべきか。