義嘉の乱
- 劉子勛(字孝徳)は孝武帝第三子。眼病のため父に愛されなかった。大明四年(460年)五歳で晋安王、江州刺史・都督を歴任。孝武帝崩後、廢帝の暴虐の中で何邁の擁立謀議に連座を疑われ、廢帝は薬を送って死を賜おうとしたが、長史鄧琬らが子勛を奉じて挙兵、明帝の即位に抵抗して泰始二年(466年)正月、尋陽で偽帝として即位し「義嘉」と改元、四方から貢計が集まるほどの勢力となったが、軍が敗れ子勛は殺された。時に年十一。尋陽廬山に葬られた。
その他の孝武帝諸子
- 松滋侯子房(字孝良)は大明四年(460年)五歳で尋陽王、後に会稽太守。明帝即位に抵抗した長史孔覬が誅されたのち建業に送還され、松滋縣侯に貶されたが、建安王休仁の勧めで最終的に流刑先で殺された。年十一。
- 臨海王子頊(字孝烈)は初め歴陽王、後に臨海王、荆州刺史。明帝即位後、長史孔道存が晋安王子勛に応じて敗れると賜死された。年十一。
- 始平孝敬王子鸞(字孝羽)は大明四年(460年)襄陽王、後に新安王、南徐州刺史。母殷淑儀の寵愛により最も愛されたが、前廢帝が旧怨から即位後に賜死。年十歳。臨終に「来世は二度と王家に生まれたくない」と語ったという。明帝が始平王に改封、建平王景素の子延年を後継とした。
- 永嘉王子仁(字孝龢)は大明五年(461年)永嘉王、明帝即位後湘州刺史とされる前に建安王休仁の計により賜死。年十歳。
- 始安王子真(字孝貞)・邵陵王子元(字孝善)はともに明帝に賜死。齊敬王子羽(字孝英)は二歳で薨じ追封追諡。淮南王子孟(字孝光)は初め淮南王、後に安成王に改封、受爵前に賜死。晋陵孝王子雲(字孝舉)は大明六年(462年)封じられる前に卒。南海哀王子師(字孝友)は大明七年(463年)封じられる前に前廢帝に害され、明帝が追諡。淮陽思王子霄(字孝雲)は早薨し追封追諡。東平王子嗣(字孝叔)は明帝に賜死。
- 武陵王贊(字仲敷、小字智隨)は明帝の第九子で、明帝が孝武帝諸子を誅した後、孝武帝の後継として武陵郡王に封じられたが、順帝昇明二年(478年)薨じ国は除かれた。
明帝十二男
- 明帝の十二人の子。陳貴妃は後廢帝を、謝修儀は皇子法良を、陳昭華は順帝を、徐媫妤は第四皇子を、鄭修容は皇子智井を、次いで晋熈王燮、泉羙人は邵陵殤王友を、次いで江夏王躋、徐良人は武陵王賛を、杜修華は隨陽王翽を、次いで新興王嵩、また泉羙人は始建王禧を生んだ(智井・燮・躋・賛はいずれも法良の後継として出継、第四皇子は未封のまま早夭)。