南史卷十四 列傳第四宋宗室及諸王下 海陵王休茂

挙兵の失敗

  • 劉休茂は文帝第十四子。孝建二年(455年)十一歳で海陵王。雍州刺史として自専を望み、司馬庾深之らの制約に憤り、左右張伯超の煽動で深之を殺害し挙兵したが、諮議参軍沈暢之らの抵抗、参軍尹𤣥度の反撃で捕らえられ斬首、母妻も自殺、同党も誅殺された。属籍を絶たれ姓を「留」に貶されたが埋葬は許された。

その他の文帝諸子

  • 鄱陽哀王休業は孝建二年(455年)十一歳で鄱陽王に封じられ、三年薨去。臨慶沖王休倩は孝建元年(454年)九歳で東平王に封じられる前に病篤く薨じ、後継が度々立てられたが絶えた。新野懐王夷父は元嘉二十九年(452年)薨去、明帝泰始五年(469年)追封追諡。
  • 桂陽王休範は孝建三年(456年)九歳で順陽王、大明元年(457年)桂陽王に改封。凡愚とされ兄弟から軽視されたが、それゆえに明帝晩年の粛清を免れ、驃騎大将軍・江州刺史・都督・司空を歴任した。明帝崩後、宗戚として輔政を望んだが用いられず怨みを蓄え、母荀太妃を廬山に葬って不還の志を示し、元徽二年(474年)挙兵、尋陽から新林に迫ったが、齊高帝の計略で新亭に降ったと見せかけた黄回に斬られた。残党の丁文豪らも羽林監陳顯逹に討たれ、晋熈王燮が尋陽を平定した。
  • 巴陵哀王休若は孝建三年(456年)九歳で巴陵王。明帝即位後会稽太守・雍州刺史・荆州刺史を歴任、征西大将軍・開府儀同三司に至ったが、晋平王休祐の死・建安王休仁への疑いの中で「至貴の表あり」との訛言が広まり憂懼、南徐州刺史に転任の後、腹心の勧める挙兵も容れず、明帝の命により江州刺史を偽授されたところで賜死された。

孝武帝二十八男

  • 孝武帝の二十八人の子。文穆皇后は廢帝子業・豫章王子尚を、陳淑媛は晋安王子勛を、阮容華は安陸王子綏を、徐昭容は皇子子深を、何淑儀は松滋侯子房を、史昭華は臨海王子頊を、殷貴妃は始平孝敬王子鸞・永嘉王子仁を、何媫妤は皇子子鳳を、謝昭容は始安王子真を、江媫妤は皇子子𤣥を、史昭儀は邵陵王子元・齊敬王子羽を、江羙人は皇子子衡を、楊媫妤は淮南王子孟・皇子子况を、次いで南平王子産・晋陵孝王子雲・皇子子文・廬陵王子輿・南海哀王子師・淮陽思王子霄・皇子子雍・皇子子趨・皇子子期・東平王子嗣らが生まれた(多くは早夭または未封のまま明帝に殺された)。