南史卷十四 列傳第四宋宗室及諸王下 晋熈王昶
魏への亡命
- 劉昶(字休道)は文帝第九子。元嘉二十二年(445年)十歳で義陽王、大明中に中書令・中軍将軍・開府儀同三司。廢帝即位後は徐州刺史・都督となったが、軽躁で嫌疑を受けやすく、廢帝の暴走のなか典籤蘧法生の讒言(「謀反」の疑い)を受けて挙兵、諸郡の不服従で事が成らず、母妻を棄てて夜に魏へ亡命した。
- 道中「白雲滿鄣來、黄塵半天起、闗山四面絶、故郷㡬千里」と悲歌し左右を哀しませたという。明帝は金千両で昶の身柄を求めたが果たせず、第六皇子燮を晋熈王の後継とした。晋熈國太妃謝氏は薄情ゆえ実家に返され、後に復権したが齊受禅で燮は安隂縣公に降封、のちに謀反の疑いで賜死。