功績と猜疑
- 劉誕(字休文)は文帝第六子。元嘉二十年(443年)十一歳で廣陵王、雍州刺史・都督として襄陽の資力を集め北伐に協力、中兵参軍栁元景を派遣して弘農・闗陜を克した。元凶の乱では揚州浙江西を司𨽻校尉、東を会州として誕を刺史とし、孝武帝の討伐に応じて劭軍を破る功を立てた。
- 荆州刺史・衛将軍・開府儀同三司から驃騎将軍・竟陵王に進み、南譙王義宣の反乱では上流の平定に大功を挙げたが、上(孝武帝)は猜疑深く、誕の壮麗な邸宅・精鋭の武備を恐れ次第に疎んじた。南徐州・南兖州刺史に転出させられ、誣告や密告が相次ぐ中で誕は自衛を固め、廣陵城で城隍を修め兵糧を蓄えたため謀反の噂が強まった。
- 有司の弾劾で属籍を絶たれ爵を落とされて侯に貶されたが、孝武帝は桓閬を兖州刺史として誕を襲わせようとし、これが露見して誕は挙兵、沈慶之が討伐に赴いた。誕は無実を訴える上表と孝武帝の宮闱の醜聞を暴露する書を送ったため孝武帝の怒りは激化し、誕の腹心・朞親はことごとく誅殺された(死者千数)。廣陵城は落城し、誕は水中に逃れたところを殺され、姓を「留」に貶され、城内の女は没収、男は皆殺しにされ京観(見せしめの塚)が築かれた。
- 誕の母殷氏・妻徐氏は自殺、追って殷を長寕國淑妃に追贈。誕の在世中には数々の凶兆(暴風・赤光・悪夢等)が伝えられた。前廢帝即位後、義陽王昶が墓に哀悼の意を表し改葬を上表、明帝泰始四年(468年)少牢を以て祭られた。忠臣王璵之は五子を人質に取られても節を曲げず、城陥落の日に一族処刑された。