清廉な補佐と非業の子
- 劉宏(字休度)は文帝第七子。元嘉二十一年(444年)十一歳で建平王。少くして文籍を好み、文帝に殊寵された。元凶弑逆の際は孝武帝との連絡役を務め、事平後は尚書左僕射・中軍将軍・中書監となり、謙倹周慎で政事に明るく厚く信任された。病により尚書令を辞し、開府儀同三司を拝さぬまま薨去、文帝は自ら墓誌銘・誄を作るほど痛惜した。
- 子景素が嗣ぎ、桂陽王休範の反乱鎮圧に功を挙げて鎮北将軍に進んだが、文才に優れ名士を集めたことで朝野の期待を集める一方、廢帝の生母陳氏一族や楊運長・阮佃夫ら明帝の旧臣に忌避され、防閤将軍王季符の讒言や運長の刺客派遣など危機が続いた。廢帝が郊外に単独外出した隙に景素擁立の挙兵計画があったが景素自身は動かず、周天賜の偽の勧誘を見破って斬り台に送った。
- 元徽四年(476年)七月、羽林監桓祗祖の偽報(台城陥落)を信じて挙兵に踏み切り、台軍に敗れて斬られ京口に葬られた。仁孝な性格で母への孝養篤く、倹素を貫き贈物を辞退したことで知られ、故吏らの上訴も省みられなかったが、齊武帝即位後に「原心を汲む」として礼葬を許された。