南史卷十四 列傳第四宋宗室及諸王下 南平穆王鑠
北境防衛と横死
- 劉鑠(字休𤣥)は文帝第四子。元嘉十六年(439年)九歳で南平王。若くして学を好み文才があり、『擬古』三十余首を著して陸機に亜ぐと評された。豫州刺史・領安蠻校尉として夀陽に鎮し、魏の太武帝が汝南懸瓠城を包囲した際には安蠻司馬劉康祖・寕朔将軍臧質を派遣して救援、魏軍は攻具を焼いて退いた。
- 元凶劭の弑逆後、侍中・録尚書事とされ、劭に迎えられた蒋侯神への上表文なども作らされたが、義軍入城の際は濬と共に孝武帝に帰順、司空・領兵を進んだが、常に憂懼して眠りが不安定であった。兄弟間の争いで帝との折り合いが悪く、食中に毒を盛られて薨去、司徒を追贈され「楚穆」の諡を得た。
- 三子(敬猷・敬深・敬先)のうち敬深は南安縣侯、敬先は廬陵王紹の後継とされたが、前廢帝景和末、廢帝が鑠の妃江氏を犯そうとし拒まれたため三子を殺し江氏を鞭打った。明帝即位後、敬猷に「懐」の諡を追贈。以後、孝武帝の子・晋平王休祐の子・衡陽恭王嶷の子らが次々と南平王の後継とされたが、いずれも早世・被害・被誅に終わった。