南史卷十四 列傳第四宋宗室及諸王下 濬

劉濬(字休明、429–453年)は文帝の第四子。母潘淑妃の寵愛を受けた文才ある皇子だったが、兄元凶劭とともに巫蠱に加担し、劭の弑逆にも同心して加わった。劭の敗北後ともに捕らえられ処刑された。

年表(5件)

巫蠱への加担と最期

  • 濬(字休明)は生まれる前夜に鵬(不吉な鳥)が屋上で鳴き、人々に忌み嫌われた。元嘉十三年(436年)八歳で始興王に封じられ、文才を好み容姿端麗、母潘淑妃の寵愛を受けて文帝の心を最も引いた。建平王宏・王僧綽・蔡興宗らと文事を交わした。
  • 元皇后が潘氏の寵愛を恨んで崩じたため、劭は潘氏と濬を深く憎んでおり、濬はこれを恐れて劭に取り入り、両者は共に巫蠱を行うに至った。京口出鎮の後、江陵鎮を求めるなど政治的野心を見せたが、何尚之ら朝臣は次弟の濬が遠出すべきでないとし、衞将軍・開府儀同三司・荆州刺史・都督・領護南蠻校尉とされた。
  • 入朝直後の二十九年(452年)七月、京口滞在中に巫蠱事件が発覚。文帝は潘淑妃に「太子はまだしも虎頭(濬の幼名)までがこうとは」と歎いた。翌年二月、濬は臨軒受拝の日に厳道育潜匿の露見を知り、その夜文帝の詰問に謝罪するのみであった。潘淑妃は濬を抱いて泣き「毒薬を送るゆえ自ら命を絶て、私はお前の破滅を見たくない」と告げたが、濬は「天下の事はまもなく決する」と言い去った。
  • 劭が弑逆した朝、濬は西州府にあって朱法瑜から異変を知らされたが劭の使者を待たず動揺し、王慶の進言(勤王すべき)も聞かず、劭の召しに応じて戎服のまま参内、諫止も聞かず「皇太子の令に逆らう者は斬る」と応じた。劭に潘淑妃殺害を告げられると「これはかねての望み」と応じるほど逆心を露わにした。劭の敗勢に際しては海上逃亡を勧めるなど最後まで謀に関わったが、劭とともに捕らえられ処刑された。